自動車もの書き屋がなんで2輪?と思われるかもしれません。いやいや、私はもともとは2輪からはじまりました。1948年小型免許(16歳から)を取った時代は不況の真っ只中、乗用車など高値の花、一生買えないと思いました。だったら、2輪減らせたモーターサイクルです。中古の250ccからはじまりました。やがて18歳で普通免許を取り、、成人し自動車に乗れる仕事を探します。1958-59年はインポーターで、ドイツ人部長アシスタントというと聞こえはいいのですが、何でも屋。入社して間も無く、部長殿、販売拡張の手として浅間レースに出るといいだしました。BMW、BSAのレース改造、出場の裏方を勤めます。後者の新人ライダーが数年後、ホンダに乗り世界GPレースで日本人最初の優勝を遂げたレジェンド、高橋国光でした。
2輪REに戻ります。スズキRE5は、日本ではデザイン取材にとどまりました。日本担当エディターだったカリフォルニア『ROAD&TRACK』誌の姉妹誌『CYCLE WORLD』にRE5長期試乗車がありました。「乗るのなら、同じ出版社の家族みたいなもの。2輪ウェア作ってやろう」と寸法取り、翌日派手な黄色革スーツが届きます。
肝心のRE5ですが、編集部では評判よくありません。1ローター、ペリ吸入ポートの低速を改良すべく複雑なポート形状と気化器を採用したのですが、つながりが段つき、一瞬のもたつき感が出ます。構造がシンプルなはずのREですが、重量は750cc級+。スズキの2ストローク3気筒750よりパワーは低く、重いのです。異種のツアリングバイク的存在で終わりました。
石油危機以前、東京モーターショーは毎年開催でした。1972年のヤマハのコンセプトRZ201は衝撃波IIでした。前年はGL750なる水冷2ストローク・並列4気筒コンセプトを発表していました。RZ201車体、デザインはGL750を踏襲したようです。
サイドカバーの3文字『CCR』は、『チャージ・クールド・ローター』です。NSU、マツダなどの自動車REは、ローターハウジングを水冷、ローター内部を潤滑油で冷却しています。ローターを混合気で冷却するのがCCRで、早期のヴァンケルREライセンスを取得したヤンマーとヤマハの共同開発といわれています。
RZ201は数台が試作され、ヤマハ保管庫に存在するという説がありますが、ヤマハ本社研究開発センター・ホールのコレクションには見当たりませんでした。
2ストローク4気筒GL750も生産化されませんでしたが、1974年に超弩級市販レーシングモデルが同形式エンジンを搭載したTZ750が出現します。
ここで例によって脱線し。世界最大自動車メーカーGMのデザイン役員ビル・ミッチェルは大の高性能バイク愛好者。それも、ミッチェル風にデザインを変えてしまうのです。コンセプトカーとペアですから、GMデザインの人材と設備が使えました。
ミッチェルにGM技術センター近くの個人バイクコレクションで見せられたのが入手したばかりのハーレー1000とヤマハTZ750でした。ハーレーの方は、コルベット・コンセプトとペアを組む『スティングレイ』にカスタマイズしました。
TZ750 ミッチェル版の気配はないので、質問しました。「うち(GM)のテストコースで乗ったよ(GMデザイン部がパニックに陥ったそうです)。結論は、純レーシングマシーンはレーシングライダーのもの。カスタマイズするべきではないと思った。才能を見込んだ若手ライダーに彼の手がとどく値段で売ったよ」ミッチェルおやじのいいところでした。
フェリックス・ヴァンケルは、出来上がったREプロトをボートで試走しました。日本のヤンマーは、3種のRE船外機を市販します。
ドイツ・リンダウの旧ヴァンケル邸・研究室、当時記念館となっていたコレクションにも箱入りヤンマーRE 船外機がありました。2種排気量でいずれも1ローター、水冷ハウジング、CCRローターを採用しました。
カワサキもREライセンス取得企業で、X99と仮称するプロトを試作しています。並列2ローター、水冷ハウジング、ローター冷却不明です。
(山口 京一)