光永パンテーラが、国内初300km/hオーバーとなる307.69km/hを記録したのが1981年11月。その後2年以上の時を経て、ようやく国産車初300km/hオーバー、301.25km/hがHKSセリカXX・M300にて記録されました(1983年12月)。それから1年後、1984年12~1985年1月にかけRSヤマモトZ(300.75km/h)、トラスト・大川ソアラ(300.50km/h)、RE雨宮RX-7(307.42km/h)により続々と国産車による300km/hオーバーが記録されました。
言葉通り「続々と」記録された中、それまでの最高記録を出し一気に最高速ランキング1位をゲットしたのが、前々回にプレイバックした「トライアルZ」の307.95km/h(1984年12月)です。
ではここで、その最速記録更新を果たしたトライアル代表・牧原道夫の「人」をクローズアップした記事をプレイバックしてみましょう!
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新・必殺改造人 トライアル社長 牧原 道夫
昭和29年1月生まれ 血液型A 鹿児島県出身
「大阪、義理、人情」
トライアルのS130Zがチューンドカー最高速の新記録307.95km/hを出した。これはあの光永パンテーラを凌ぐ快挙だ。関係者は当然、クルマに注目した。エンジンは? タービンは? 足まわりは?・・・と。しかし、一番気になったのは、いったいどんな人がそのクルマを作ったのか、なぜ人よりも速いクルマを作る気になったのかということ。はっきりいって、最高速を出すことが即、商売に結び付くとは思えない。それなのにどうしてチャレンジし、レコードを出したのか、ということだ。
スピードには言葉で表現できん何かがある
東大阪にあるトライアルに足を運んだ、「ああ、どうも」と少し高い声で挨拶してくれた牧原さんは、真っ赤なツナギを着て両手をポケットに入れている。イメージはちばてつやのコミックに出てくる鉄兵、もしくは国松クンといった感じだが、彼の目はネコ科のそれと同じくらい鋭い。
OPT:いつ頃からチューニングするようになったのですか。
牧原:いつやったかな、もう忘れてもうたで、そうやな、アルバイトの頃入れてもう12年くらいになるかな(85年当時)。実の兄がカーショップ・チャレンジのオーナーでな、そこでアルバイトしよった。18歳で免許取ってすぐやったな。
OPT:最初のクルマはなんでしたか?
牧原:免許は一発試験のほうやった。3回目で受かった。初めに買うたんはRX-3、当時はサバンナがムチャクチャ流行っとったからね。新車で確か79万円やったと思うわ。まだ10Aしかない時でGS-Ⅱというヤツやった。それ買うて、真っ赤なヤツをすぐドアミラーにしてレーシングタイヤ履かせとったな。フロントもリヤもスポイラー付けとった。
OPT:当時それだけやってたら結構、目立ってたんじゃないですか。
牧原:目立った。S30よりもカッコイイ言われた時もあった。しかしオレの周りはみんなそんなヤツらばっかやったからな。ノーマルなんかで乗っとったらその方がかえって目立っとった。まだ暴走族ゆう言葉もなかったけど、よう7~8台で走り回っとったわ。今でいう走り屋ともちょっと違うとったな。
OPT:族でも走り屋でもないというと、何だったんでしょうね。
牧原:どっちも違うな。とにかく走り回っちゃあみんなでダベっとった。それもクルマと女の話だけな。そのまま今でも気持ちは年取ってないつもりやけどな(笑)。
OPT:RX-3の後はどんなクルマに乗られてたんですか?
牧原:ようけい乗ったな。RX-3の後はZだけで5台は乗っとるし、トヨタ、三菱、三菱はGTOとかセレステも乗ったな。外車はシロッコぐらいやな。とにかく数多く乗った。RX-3は3ヵ月で飽きた。なんでやろ。
OPT:それだけ乗ると、いろんなクルマの特徴みたいなものが分かったでしょうね。
牧原:結果的にクルマよりもメーカーの特性みたいなものが分かったな。メーカーごとに何考えとんのかを知ることができた。これは今でも役立っとんで。
OPT:そのころからやっぱりスピードには興味があった・・・のは当然ですよね。
牧原:スピードには魅せられとったな。言葉で表現できん何かがあるやろう、スピードには。あの頃はムチャクチャしよったな。外で走り回って家に帰ってから布団の中で思い出すと、恐怖でガタガタ震えたことがようあった。今考えても恐ろしいわ。