再建のために住友銀行から派遣された役員は、手頃な価格のスポーツカーこそREに最適と山本さんに提案したと伝えられています。のちにレイアウト、デザイン担当となる松井雅隆役員の言葉です。「われわれの中では、スポーツカーはどんな乾いた時期でも砂漠の下の水脈のように流れ続けていた。」事実、スポーティクーペからスーパーカー、ミドシップエンジン車まで、無数のスケッチ、図面が描かれ、複数がモデル化されてきました。
そして実現したのが1978初代RX-7 SAでした。REで失った市場挽回ではなく、あたらしい市場を開拓したのです。シアーズポイント・サーキットの山本さん、ほんとうに嬉しそうなお顔でした。
マツダ社長に就任された山本さんからいただける時間は半減しますが、要点を突かれました。「われわれは、ニコラス・オットーの火花点火往復運動エンジン、ルドルフ・ディーゼルの圧縮点火、そしてフェリックス・ヴァンケルREの3本の柱を持つ。どれが、どれにとって代わるのではない。REに最適なのはスポーツカーである。」
まだ、山本さんからたっぷり時間をいただける時期でした。話題は、REはスプリント・レース向きか、長距離・長時間耐久型かに及びました。フジグラチャンでは、エンジンキング BMWに迫る強さを発揮した REでした。山本さん、「私はスプリント型だと思う。しかし、エクスパートの判断を聴こう。(傍の広報部員に)松浦君を呼んでくれ。」
松浦国夫さん、REレーシングのために生まれたようなエンジニア、即答が返ってきました。「耐久型です。」説明に山本さん、満足された様子でした。787Bの1991ルマン24時間優勝への道が開かれたと思います。
1996年、フォードはマツダ筆頭株主として経営権を握り、社長をはじめ、幹部役員を送りこみました。フォードは、明らかに REをマツダの重荷と考えていたようです。マツダの人たちは、フォードから来た技術役員、最終的には社長にREの価値、魅力を説得、実証しました。英フォードでフォーカス、「モンデオなどの高性能モデル開発に従事した故マーティン・リーチ(マセラティ社長を経て中国EVスペシャリストヘ。後者では、フォーミュラE初年度チャンピオンシップ獲得)、彼の後継者フィル・マーテンス、そして当時フォード・グループ技術総帥リチャード・パリー-ジョーンズらを、RENESISプロトエンジンを搭載した実験車に乗せています。
リーチ専務は、フォード本社最高幹部にふたつの開発を直訴すべく、ヨーロッパからの帰途、回り道をし、デトロイト行き機内で某トップにふたつの直訴をしたと話していました。ひとつはRX-8開発、他はルマン復帰で、後者は却下されたと苦笑していました。
RX-8の発表は、マーク・フィールズ・マツダ社長期でした。RX-8開発陣は、完成したプロトタイプ試乗に山本健一・元会長を招きました。私が最後に山本さんにお会いした際のお話は、REと水素経済の相性でした。山本さんの中では、挑戦は絶え間なく続いていたのです。
(山口京一)