千里の道も一歩から。伝説的な創業者の信念とは?【意外と知らないクルマメーカーの歴史・フェラーリ編】

戦争が終結した1945年。エンツォ・フェラーリは、この時すでに47歳。レース活動はもちろん、新しいことにチャレンジする活力に陰りが見えても不思議ではないのですが、マラネロに自動車工場を設立し、レーシングカーのエンジン設計者であるジョアッキーノ・コロンボのほか、ジュセッペ・ブッソとルイジ・バッツィとともにレーシングカーの開発をスタート。1947年には最高出力100psを誇るV12エンジンを搭載した「125」を完成させ、年内に参加した12の市街地レースのうち6回の優勝に輝きました。

翌年には「166S」を発表。1995ccのV12を搭載し、最高速度は185km/hを誇り、イタリア全土を1000マイル走る公道レースの最高峰「ミッレミリア」のほか、1949年には「ル・マン24時間レース」で優勝を飾り、フェラーリの名を知らしめました。また、同車は販売も行なわれ、フェラーリの市販化のきっかけにもなりました。

その後、友人であるルイジ・キネッティの勧めによって1951年に「340アメリカ」を販売し、市販化を促進。1953年にはレーシングカーをベースとしない「250」を販売。当初は騒音や乗り心地の悪さが指摘されたそうですが、改良を経るごとに公道での扱いやすさとの両立が計られていきました。こうして生産台数を増やしていった一方で、エンツォの胸の中にはV12気筒エンジンへのこだわりや扱いやすさへの配慮に対する葛藤があったようです。

しかし、エンツォの過剰なまでのモータースポーツへの投資や労使紛争によるストライキを受けて、フェラーリは経営難に陥ります。1969年にはフィアットの傘下で経営の安定化が図られる中、エンツォは市販車部門からは一切手を引き、レース部門での指揮に専念。1972年にマラネロの本社工場の西側にあった果樹園を買収し、テストコース「フィオラノサーキット」を建設。ちなみに、サーキット内にはエンツォの別宅も建てられました。

そんな彼が最期に手掛けたのが「F40」でした。

89歳となったエンツォ自身が発表を行なった「F40」は、そのままレースに出られる市販車という理念を徹底したモデルであり、当時の最先端の素材で仕立てられたボディは極限の軽量化が行なわれており、エアコンこそ備わるものの、ドアノブやカーペットの類は省かれていました。

エンジンは2.9L V8ツインターボ(478ps/58.5kgm)を搭載し、320km/hを超える最高速度を市販車で初めて突破することに成功。当初は350〜400台の限定でしたが、殺到するオーダーを受けて最終的には1311台が生産されたと言います。

1988年、腎不全によってこの世を去ったエンツォ・フェラーリ。カリスマを失ったフェラーリの行く末を心配する声もありましたが、人生の全てをレーシングカーのために費やした彼の生き様は、いまでも健在のV12気筒エンジンや、それを搭載し800psを越す「812スーパーファスト」として脈々と受け継がれています。

(今 総一郎)