RE雨宮自動車の雨さんとDaiちゃんの「My ROAD東京サーキット」 【雨さん編】

コーナーがある。攻めたくなるのは本能だ!

雨宮勇美(当時32歳)

山梨県生まれ。中卒で東京に就職、鈑金業のかたわらチューニング車の速さに魅了され、ストリートを走り回る。ロータリーのストリートチューナーとして名を上げるが、1982年のWEC(世界耐久レース)に出場するなど、スピードスピリッツに溢れている。その親しみやすさと人情味で、若者には教祖的存在だ。

ガスがなくなるまで走った! 亀戸から第3、東名の往復コース・・・雨宮勇美

オレ、昔、暴走族だったからね。20~30台で走ったけど、信号無視なんかしなかったッス。いつものルートを全開で飛ばすだけ。

鈑金業の仕事してたから、土曜日が解禁日。亀戸からスタートして錦糸町、東陽町、そして銀座に出るんだよね。深夜でも12時ごろだから混んでたよ。でも、上手くかわして全開! 青山通りに出て、青学の横で休憩。ニーヨンロク(国道246号線)の三軒茶屋あたりで、ブレーキがベーパーロック起こすんだよ。それくらい、信号まで全開、フルブレーキングで走った。クルマはサバンナGTとかセリカだった。もち、フルチューンっス。

環8に出て第3京浜か東名に乗る。どちらのコースを取るかは、その日の気分ッス。第3に乗って料金所に着くと、大体、競争するヤツが待ってる。オレのサバンナも街中じゃ速いけど、高速はパワー勝負だから、ポルシェなんかには負けたこともある。第3を往復して環8に戻り、用賀から首都高に乗る。当時はそんなに混んでいなかったから、コーナー、ベタベタ攻めたよ。練習には最高の道だったね。これで、ガス欠寸前になるからね。朝4時ごろ家に帰るワケ。でも、当時の首都高には、今でいう正統派の走り屋グループもいて、”街中でなく、首都高で勝負しよう”なんて言われたもんだ。

この記事の著者

永光やすの 近影

永光やすの

「ジェミニZZ/Rに乗る女」としてOPTION誌取材を受けたのをきっかけに、1987年より10年ほど編集部に在籍、Dai稲田の世話役となる。1992年式BNR32 GT-Rを購入後、「OPT女帝やすのGT-R日記」と題しステップアップ~ゴマメも含めレポート。
Rのローン終了後、フリーライターに転向。AMKREAD DRAGオフィシャルレポートや、頭文字D・湾岸MidNight・ナニワトモアレ等、講談社系車漫画のガイドブックを執筆。clicccarでは1981年から続くOPTION誌バックナンバーを紹介する「PlayBack the OPTION」、清水和夫・大井貴之・井出有治さんのアシスト等を担当。
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