モータースポーツ底辺拡大にフォーミュラジュニア=FJ660復活 はいかが?

〈Mondaytalk星島浩/自伝的・爺ぃの独り言49〉 今は鈴鹿サーキット名誉競技役員の一人に過ぎないが、1965年から70年代半ば過ぎまでは所属クラブが主催するイベントの運営に携わり、いくつかのレース・カテゴリー制定にも関与した。

 

 例えばFJ360とFL500————フォーミュラジュニアと同リブレである。

 

 ツーリングカー部門は1963年に始まった日本グランプリにも360ccクラスが設けられ、第1回はスバル優勢の下馬評を覆してスズキが優勝、第2回はスバルが雪辱を果たした。が、話題はここまで。グランプリが富士スピードウェイに移ると決まった後はすっかり下火になってしまう。

 

 JAFにおける軽自動車メーカーの発言力が弱かったのと無関係ではないが、ちょうど軽乗用車の設計自体が変革期を迎えた事情もある。

 

 スズキがフロントエンジン・フロントドライブ=FF。スバルとマツダがリヤエンジン・リヤドライブ=RR、三菱がフロントエンジン・リヤドライブ=FR。それぞれが独自レイアウトを競っていた。

 

 そこにホンダがN360=FFで殴り込み。低価格と規格寸法内での居住空間や荷物スペースの大きさを喧伝。爆発的に売れて、各社が対応に追われたほか、来るべき排ガス対策、衝突安全問題を控えて、いずれもツーリングカーレースに付き合えるほどの余裕がなくなった。

    130624_670309_n360_8

左からマツダ・キャロル(RR)、スバル360(RR)、ダイハツ・フェロー(FR)、スズライト・フロンテ(FF)、ホンダN360(FF)、三菱ミニカ(FR)。1967年モーターファン誌、取材風景より

 

 そんな時期、FJ360が誕生する。発想は、量産乗用車からパワー&ドライブ・プラントを取り出せばミニ・フォーミュラが造れる! というもの。

 

 これならFRの三菱は無理として、FFでもRRでも横置きプラントでフォーミュラカーが成立する。言わばカートの親分である。手軽な価格と親近感で、フォーミュラレース時代の底辺に位置づけられるだろう、と。

 

 モトクロスで勇名を轟かせ、スズキと縁が深かった京都の小島松久さんがリーダーとなり、各地のコンストラクターが名乗りを挙げたところで、JAFの競技車両規定が決まる————エンジン横置きの同軸上にトランスミッションがあるため、細部を除いて左右対称設計でなければならないフォーミュラ規定に抵触するとの異論もあったか、なんとか成立した。

 

 ただし前記変革時期にあったため、実際に行われたレースはほとんどなく、やがてFL500に改まる。

 

  360ではなく500としたのは、軽自動車の排気量規格決定が難航中だったのと、エンジンを2サイクルから4サイクルへ、あるいは空冷から水冷に転ずる動きなどが錯綜していたためだ。

 

 車両規定改正に際し、JAFから「360ccを超えれば正式フォーミュラとは認めない。リブレ(規格外の自由な形式)なのだから{インディマシン並みの30㎏消火器を積むべし}なんて無茶なイチャモンが付いたものの、各コンストラクターやレース主催者代表の懇願で5㎏に落ち着いた————名を伏すが、イチャモンの多くは日産在職の技術系スポーツ委員が発議した。

 

 いち早く3気筒エンジンで高回転・高出力を実現、小島松久さんの熱意に対するスズキのバックアップも大きく、FL500のほとんどが小島エンジニアリングのパワー&ドライブ・プラントを搭載する。

 

 協力したコンストラクターは私の記憶する限りでもハヤシ、マルチ、伊藤、戸田=各レーシング、鴻池スピード、鈴木板金を数え、出場台数が急増、コースによっては予選落ちが出るほどの活況を呈するに至る。小島松久さんがエラいのはスズキ・ワークスチームを拒んだこと。お陰で多様なマシンと新人ドライバーが輩出し、おおかたの予想を超える人気を呼んだ。

 

 悔やむべきは、事実上スズキパワーに限られたことだ。

 高回転・高出力発揮可能なエンジンがスズキの2サイクル3気筒しか見当たらなかった————親しくしていた小島松久さんを前にしては言い出せずじまいだったが、他社が排ガス対策ゆえに4サイクル化を志向していた事情を踏まえて、2サイクル使用期限を定め、4サイクルエンジンによるマシン規定を立案するなど、将来に備えておけばよかったと反省している。

                       130624 

 最後まで2サイクルに拘っていたスズキが、一時的にしろ、ダイハツから4サイクルエンジン供給を受けるハメになったし、74年のオイルショックで経済が疲弊。クラブ主催イベントがなくなり、軽乗用車も様変わりしてFL500も自然消滅した。

 

 しかし、今からでも遅くない。

 年間、登録車350万台、軽500万台時代である。

 クラスを自然給気エンジンとターボ付きの2クラスとし、ドライバーもレース経験に応じてノービスとジュニアに分け、マシン設計やタイヤサイズ、チューニングにも差を付ける————かつてバイクレースで実施されていた。

 

 マシン製作は工学系専門学校も良し。現存コンストラクターは少なくなったが、新たなチューニングショップが名乗りを挙げる可能性もある。

 

 むろん当初はビッグイベントの前座レース扱いだろうが、予選落ちが出るほど活況を呈するとなれば、観戦者も増えるに違いないし、軽ユーザーに多い女性ドライバー進出も期待できそう。フォーミュラに固執せず、軽ツーリングカーレースを復活させるのもよろしい。

 

 F1がダウンサイズ規定に改まると日本のフォーミュラ路線も再構築しなければなるまい。スーパーフォーミュラがどうなるか。まだ先を読める時機ではないが、10台そこそこで行われている現行国内F3レースなんか、観客に失礼じゃないかしら—-ピラミッドの底辺拡大が急がれる。

 

 今や隠居同然の私にレギュレーション作成、レースを企画する実力はないが、足腰が丈夫な内は勇んで観戦に出かけるョ。以前は北海道であれ、九州であれ、好きなレースを観に行ったんだもの。★