〈MondayTalk星島浩/自伝的爺ぃの独り言38〉 伝統ある鈴鹿1000㎞、8耐=8時間耐久ロードレースと2&4は、いずれも私が所属するスポーツクラブの企画・運営で始めた。ただし8耐と1000㎞は規模拡大につれ国際格式になり、クラブが手に負えるレベルを超えたため、早い時点でサーキット主催に代わっている。
企画・運営というとカッコいい。オフィシャルもエラそうだが、所詮「縁の下」。ただし「力持ち」ではない。修学旅行用ながら宿舎と食事が用意され、ギャラが高校生アルバイト以下だとしても、それで「好きなレースに関われる」喜びは小さくない。海外レースのオフィシャルだって、多くはボランディアが実務運営に当たっている。
ただ2&4には、悔しくも苦い思い出が—-。
1974年に第1次オイルショック勃発。74年ばかりか、翌75年に予定されていた日本グランプリなどビッグレースが軒並み中止と決まったのを、逆に好機到来と捉え、急遽、開催したのが75年の第1回2&4である。
それまでも私が所属した2輪系テクニカルスポーツクラブと4輪系GSSは、2輪と4輪のレースを別日程で開催していたが、運営費がかかる割に観客動員数に恵まれなかった。できれば2つのレースを1日で開催したいと申し出たものの、スポーツ権能者である4輪=JAF、2輪=MFJはもちろん、サーキットオーナーからも「とんでもない」と断られていた。
「F1GPだって、ロサンゼルスでは前座にカワサキ・グランプリが組まれている」と観戦記録を示しつつ抗弁しても、双方の組織許可が得られない。
オイルショックを喜ぶわけではないが、ビッグレースが次々中止されるに及び「このままではモータースポーツの灯がきえてしまう」と案じ、やっと、午前2輪、午後4輪の別組織で申請、実現に漕ぎつけた。
事実上、予選やフリー走行まで、はっきり午前と午後に分けることはできなかったし、2輪で有効なクラッシュパッドが必ずしも4輪走行に適さないとの意見もあったが、短時間で設備を入れ替えるわけにもいかず、運営は楽じゃなかったものの、なんとか凌いだ。
練習走行中のミニフォーミュラがクラッシュパッドに激突した際、ドライバーに怪我がなく、マシン損傷も軽微だったので、4輪レースでもパッドを撤去しないで良かろうと、審査委員会に認めてもらえたのが大助かり。
それより快くなかったのはサーキットオーナーとの確執だ。
そもそも組織許可を得たのは「ビッグジョン・トロフィー・レース」—-略称<ビッグジョン2&4>。既に参加者を募り、広報活動を進めていた。
名が示す。実は、これもドサクサ紛れて、日本初の<冠レース>を企画したもの。直接交渉に当たったのは私じゃないが、ビッグジョンは岡山の企業で、わが本籍地とは「目と鼻」にある。学生服メーカーが60年代にジーンズで知られるようになった。ジーパンブームをもたらした一方の雄だ。因みに「VAN」を興した尊敬すべき石津健介さんも岡山市のご出身である。
ところが、レースの公式プログラム作成段階でサーキットオーナーから「企業名、商品名を冠するならコース使用許可を取り消す」と強硬なイチャモンが付いた。組織申請時点ならともかく、運営は軌道に乗っている。泣く泣く「ビッグジョン」のジョンを消して<ビッグ2&4>と呼称せざるを得なかった。今は単なる<2&4>に変わっている。
イチャモンだけじゃなかった。
サーキット職員がビッグジョン本社に赴き、カネを出すなら法人格もないスポーツクラブではなく、ホンダと同体の大企業たる鈴鹿サーキットに提供してほしいと申し入れ、詳しい経緯はともかく、パドック脇の<BIGJOHN>なる大きな広告看板に化けてしまう。「イヤならレースを中止しろ」と。
企業の営業活動に非を唱えるつもりはない。が、お陰で私たちクラブは協賛金が「皮算用」に終わったばかりか、「初の冠レース」主催なる栄誉も奪われてしまった。せめてもの救いは、1日で2輪と4輪のビッグレースが楽しめるとあって、クラブ主催イベントとしては予想を上回る観客動員数を得たこと。それが証拠に、自主制作した公式プログラム6000部が僅か1時間で売り切れた—-「そんなに多く刷ってどうするの?」とサーキット側に笑われていた6000部である。
日本初の冠レースが雲散霧消したばかりではない。開会式で予定していた浜田幸一=名誉会長の挨拶を「政治家」であること理由に強硬に阻止されたのも悔しい。ハマコーさんは実際GSSの名誉会長だったんだもの。
「キミたち、カネに困っているんだろ?」と頂戴した援助金でバスを調達し、東京から満員の競技役員を往復させたのもハマコー先生のお陰である。
他方、私が所属するテクニカルスポーツクラブ(藤井璋美会長)は既に鈴鹿8耐を開催すべく、レギュレーションやタイムスケジュール作成などの準備にとりかかっていた。今をときめく鈴鹿8耐も出発点は選手権もかからないクラブイベントに過ぎなかった。が、幸い大成功。国際格式にステップアップするに伴い、主催権がサーキットオーナーに代わったのは当然として。その名も堂々たる冠レース<コカコーラ8耐>に改まっていた。
オフィシャル引退後、2輪部門の大会会長を暫く続けた私が、決まってジーンズを着用していた理由はいうまでもなかろう。ただしコカコーラ8耐開催を機に、レース企画・運営から身を退くと決めた私である。その後も名誉競技役員としてF1GPは無理だが、顔を出せば、ありがたくも宿舎と食事の面倒はみてもらっている。
むろん「2&4」には今も欠かさず鈴鹿サーキットに足を運ぶ。
今週末の2&4はバイクレースが秋吉、中須賀、加賀山の競り合いか。スーパーフォーミュラは個人的に中島一貴を応援しているが、F3からステップアップする新人=平川亮にも期待(選手名敬称略)している。★