〈MONDAY TALK星島浩/自伝的・爺ぃの独り言26〉 旧聞ながら、2011年、トヨタのマスタードライバー=成瀬弘さんの訃報に接して悲しかった。直前のオートサロン会場で言葉を交わした際、これからニュルブルクリンク行きの準備だとお元気でいらしたのに、そのコース近くの公道で交通事故に遭い、亡くなられた。
マスタードライバーはトヨタの走行実験部門の最高称号で、メーカー社長としては本田宗一郎さんに勝るとも劣らぬ運転技量の持ち主で知られる現・豊田章男社長を実地指導した「先生」としても有名だ。
成瀬さんに初めて会ったのは彼が入社後1、2年の1966年春。前年秋の東京モーターショーに出品し、熟成途次のトヨタ2000GTを、開発主査でレース担当でもあった河野二郎さんの許しを得て、豊田・京都間を往復試乗したとき、お供してくださった。
むろん試運転ナンバーで走った。関ヶ原近くで新幹線と競走 したのは若気の至り? だが、途中、急な大雨に見舞われ、それまで私の一挙手一投足を黙って見ていた成瀬さんが、たまりかねたのか「ウェット路面走行の注意点は?」と訊いてきたので「挙動変化が起こってからでは手遅れ。保舵力変化に神経を集中してます」と応える。
無事に帰社。河野さんに試乗印象など報告したら「滋賀県警から今日のテストの目的は? と問い合わせがあったぞ」と注意され、いたく恐縮したのを憶えている。成瀬さんは下を向いて笑っていた。
正式発売は67年5月だが、66年には鈴鹿1000kmレースで見事ワンツーフィニッシュ。秋には開場まもない谷田部で長時間最高速記録を日本車で初めて樹立するなど話題に事欠かなかった。
鈴鹿1000kmは私が発案。所属クラブが主催した日本初の途中給油レースで、トヨタ2000GT出場要請に伺った際のおマケが京都往復試走だった。5月、富士での第3回日本グランプリは市販車でないためレース区分で不利な扱いを受けるが、鈴鹿1000kmでは生産台数に関係なく市販前提車として主催者が「大歓迎します」と誘った。
選手権はかからないものの、ピットでのドライバー交代と給油作業、なにより話題のトヨタ2000GTを間近で観られるとあって、レースは成功。サーキットから過分の? 報奨金がクラブに届いたっけ。
優勝したのは福沢幸雄・津々見友彦(敬称略)ペア。フィニッシュライン直前で2位車を待つ演出など、余裕たっぷりの圧勝だった。
発売されたトヨタ2000GTはリトラクタブル・ヘッドライトを備えた流麗なクローズドクーペで2シーター。天井が高いのはヘルメット着用を想定したと聞くが、3サイズは、全長4175mm、全幅1600mm、全高1160mm。重量1120kgが軽く仕上がっていた。
1967年。モーターファンロードテストに供されたトヨタ2000GT。
エンジンはクラウン用2000ccをヤマハ発動機がDOHC化。クラッチ踏力が些か重いものの、フロアシフト5速フルシンクロMTと組み合わせた。バックボーンフレームに前後ダブルウィッシュボーン/コイルの独立懸架。ラック&ピニオン・ステアリングはギヤ比が小さめで操舵力は重め。ブレーキ踏力も重かったが、4輪ディスクとマグネシウム・ホイールも日本車初。まさしく一流スポーツカーなのに、インパネ下から引き出すステッキ型ハンドブレーキばかりは違和感を覚えた。
デザインは諸説あるが、最終的にトヨタが手を入れた。というのも当初ヤマハが日産に売り込んだのを断られたと聞いている。機械部分はヤマハ・トヨタ合作。生産・組立はヤマハの袋井工場で行われた。
欧米でも高評価されたのが内装だ。ヤマハ楽器が、インパネや内張りを製作。木場の銘木店が複数の基材調達に協力したのを知っている。
発売価格238万円。高級かつ高価。クラウン2台分、フェアレディ3台分だが、ボンドカー人気もあって約半数が輸出された。
ただし生産数はレース用を含めて僅か230台。今なお2000万円前後で取引されているのは、日本の名車に数えられる証だろう。★