カーオブザイヤーとはなんだったのか? そして今年の受賞車は?

〈MONDAY TALK星島浩/自伝的・爺ぃの独り言19〉 日本で初めてカーオブザイヤーを企画したのは1970年夏だから42年前に遡る。モーターファン復刊300号記念行事とすべく社内募集案を採り上げた。具体的には同業ジャーナリスト=山口京一さんと私が鈴木脩己社長(当時)と規則や選考スケジュールを練り、ロードテスト座長の平尾収東大教授らに諮って71年次から実行した。

 

 選考委員会はモーターファン誌執筆陣に限らず、クルマ好きで知られる作家、音楽家、ファッションデザイナー、誌面に登場したユーザー代表など約20名で構成。平尾先生に委員長をお願いする。

 

 考えたら豪勢な企画で、選考委員がノミネートした上位候補車を箱根や河口湖周辺で試乗し、後日、検討座談会を催し、討議内容を誌面に反映させる。最終投票は平尾先生案に従い、気に入った車にプラス点、推したくない車にマイナス点を投じる規定としたほか、晴れてイヤー賞に輝いた車を読者代表に贈呈する企画が話題を呼んだ。

 ただし3ヶ月に亘って選考経過や各委員による評価を誌上に載せるなど、読者や業界関係者に高く支持されたのは良し。半面、イヤーカー購入や選考にかかる費用、委員に支払うギャラなど、1自動車専門誌が負担するには多額に過ぎた。それでも10年続けたのは立派?

 

 イヤーカー選びはオランダの専門誌が始め、モーターファン誌が倣ったものだが、やがて規模が欧州カーオブザイヤーに発展した経緯をみても転機が近づいていた。他方、モーターファンを追って日本でも媒体ごとにイヤーカー選びが始まった背景がある。

 

 10年を経たところで、より広い範囲の自動車関係マスコミが「共同してイヤーカー選びをしようじゃないか」とまとまったのが81年発足の日本カーオブザイヤー。

 

 当初はモーターファンで選考委員を務めた先生方とジャーナリストたちが横滑りで就任したが、10年経過した時点で共同開催に加わった出版社代表が実行委員となり、選考委員を推薦する運営方法に改まった。

 

 1出版社が主宰していた10年間と比べるとイベント・インパクトは大きく、イヤーカー選びが新型車の販売実績に響くなど、受賞効果が高まるにつれ、実行委員会メンバーである専門誌などとメーカー&ディーラーとの癒着が取り沙汰され、一般紙や週刊誌に揶揄されたこともある。事実、私の仕事場に記者が訪れ、メーカー関係者とのゴルフ遊びが「饗応」を疑われたため、自弁の証に領収書を示したっけ。

 

       

 

 他方、実行委員会を形成する出版社なり雑誌が広告入稿を期待し「都合のよい」選考委員を推薦したり、イヤーカーを逃したクルマに特別賞を設定するなど、露骨な運営も目立ってきた。加えてジャーナリスト活動に遠い学識経験者を排除すべく、推薦できる選考委員を1社3名と定め、平尾収先生を含めて10名を超えていた三栄書房からの横滑り組がおおかた不信任=お役ご免になってしまった。

 

 強引な決定に不満と不信を唱えた当時の三栄書房が実行委員会から脱退して直ちに善後策を検討。鈴木脩己さんの音頭で平尾収先生、景山克三先生、樋口健治先生、ジャーナリストから三本和彦さん、山口京一さん、透視図作家の猪本義弘さんと私が集まり、RJC=日本自動車研究者・ジャーナリスト会議を設立。学識経験者や有力な試乗レポーターの参加を求めて1991年から、別途イヤーカー選びを始めた。

 

 イヤーカーのほか、実用化技術=テクノロジー・オブザイヤー。著しい業績を残された人物=パーソン・オブザイヤーを表彰する。

 設立当初はメーカーやディーラーの協力が消極的で、会員を「有象無象」呼ばわりする向きもあったが、既に22年目に入っている。

 

 ただし多くの先生方が亡くなり、現存会員も老齢化。現役ジャーナリストが比較的少ない。また、どのメーター出身者も会員に受け入れる正論には反対できないものの、事実上は某メーカー1社系に偏った現状に対する疑義が燻っており、思い切った転換策が望まれているのも事実。今年度の各種イヤー賞が決まるのは11月半ばである。★