白いタンクと赤いエンジン -スーパーカブ発売前夜から-

〈MONDAY TALK星島浩/自伝的・爺ぃの独り言24〉 モーターファン誌でアルバイトしていた約60年前。三栄書房・鈴木賢七郎・初代社長にお供して東京駅八重洲口近くのホンダ事務所を訪ね、本田宗一郎社長と藤沢武夫副社長(当時は専務でいらっしゃったかもしれない)に初めてお目にかかった—-お目にかかったなんて、おこがましい。少し離れた席でお三方の会話を聴いていたに過ぎない。

 

 内容から察するに、カブ誕生直前の取材打合せだった。ほどなく、「白いタンクと赤いエンジン」なる名キャッチフレーズと、高沢圭一画伯デザインのポスターで<Cub=カブ>発売。1952年である。

                                                           

 むろん2サイクル単気筒50ccで、赤いエンジンカバーも珍しいが、ホーロー引きの白い円形タンクがとても斬新に映った。今はバイクでも2サイクル(ストローク)エンジンを見かけることは少ないが、いち早く4サイクルを普及させたホンダも出発点は2サイクルだ。

 

 興味深かったのは、原付やバイクの使われ方に関する話—-国鉄(当時)&私鉄はともかく、都内は路面電車と併行してバスやタクシー、3輪トラックが通行、バイクは荷台付きが多かった。個人ユースではスクーターが目立ち、それらに混じって、原付が道路の端を遠慮がちに走っていた。女性の原付許可証保持者が増えた時代背景もある。

 

 はっきり憶えているのは、カブの赤いエンジンを後輪側に据えた理由だ。原付のほとんどがエンジンをフレーム中央下に取り付けているため、男性ならズボン、女性はスカートが汚れがちだった。

 

 スクーターだとエンジンなど機械部分はシート下でカバーされているし、ペダル前にはレッグシールドもある。が、重量が嵩むので50ccパワーでは無理。そこでカブはタンクとエンジンを後輪側に搭載。これなら許可証を取ったばかりの女性にも軽快に走ってもらえる、と。

 

「な、そうだろ?」と本田社長が私に話を振ってきたのを幸い、カブの開発コンセプトに共感{ぜひ買いたいと思います}と応えながらも、下宿というか居候先である下町での見聞を披瀝(ひれき)した。

 

–「汚れるのはズボンやスカートだけではありません。駐めている間にオイルがマフラーに溜まり、次に発進させると煙と匂いがひどいので、寿司店や蕎麦屋などでは入り口近くに駐めない、駐める際はマフラー内にオイルが溜まらぬよう、前輪を高く持ち上げておきます。本格バイクと違い、原付は自転車同様、狭い横丁や店先が駐車スペースですから、と。

 

 図らずも混合給油する2サイクルエンジンの弱点を指摘したわけだが、本田社長が耳を傾けてくださり、嬉しかった。因みにホンダの藤沢副社長、三栄書房の鈴木社長とも、運転免許はお持ちだったと思うのだが、2輪・4輪ともご自分では決して運転なさらなかった。

 

 敗戦後まもない1946年に、発電機用50ccを自転車に取り付けた原付がホンダの出発点。やがて自社製エンジンに代えたが、原付ばかりか、49年に発売した初の本格バイク=ドリームも100cc単気筒2サイクルだった。チャンネルフレームに4サイクルOHV 150ccエンジンを積んだのは51年。ひょっとすると本田社長の脳裏にはこの時点で「原付も早晩4サイクル化」が閃いていたかもしれぬ。

                                    

                歴史的なモデル、スーパーカブが登場(1958年)。

 白いタンクと赤いエンジンのカブは大成功し、わが本籍地の岡山県でもおばぁさんが走らせているのを見て微笑ましかった—-まさしくホンダの第一期黄金時代到来。スクーター・ジュノーこそ不成功に終わったものの、浜松では足りず、鈴鹿工建設計画が伝えられるなど勢いづいていた頃、スーパーカブが登場する。1958年である。

 

 なるほど—-本田社長と藤沢副社長が話しておられた「原付許可証で乗れるミニマム・トランスポーテーション」が完全に具現化していた。

 

 バックボーンフレームを採用。ほぼ水平に搭載したエンジンは4サイクルOHV (ややあってOHC化) 50cc。トルクは2サイクルに劣るものの回転でパワーを稼ぐ4サイクルのあり方を示す一方、高まりがちな騒音を大きなマフラーで対応。スクーターが用いていたベルト式ではなく、遠心クラッチ式3段MTを採用。左グリップからクラッチレバーを省いて「片手運転」可能。方向指示も右手側でできる。むろんペダルなし—-原動機付き自転車が単なる「原付」になっていた。

 

 タイヤ径はやや小ぶりな17インチ。スクーターほど低くないものの女性にも着座しやすいシート位置で、プラスチック製レッグシールドがエンジンを覆うよう却風導入にも役立てた。

 

 以来半世紀超。欧州のモペットにもない独創的なスタイリング&デザインと「使われ方」は国内にとどまらず海外でも大受け。横須賀に米空母が入港する都度、トラック一杯のスーパーカブが積み込まれたのを知っている。地方にはスーパーカブなら通学に使っても良しと決めた高校もあった—-ホンダの大躍進はスーパーカブを礎とする。

 

 おそらく今日までの累積生産は8000万台を超えるだろう。

 生産は鈴鹿から熊本工場に移り、海外でも造られたが、2012年のモデルチェンジを機に主力を中国に集めて国内から撤退—-生産コスト低減分で国内販売価格を引き下げたのもスーパーカブならでは。★