「あのベンツも市販直前だった」知られざるロータリーエンジン開発のエピソードZERO【クルマ塾マツダのレジェンドに学ぶ第1回】

往年のマツダ名エンジニア&デザイナーである福田成徳さん、小早川隆治さん、貴島孝雄さんを壇上に招き「レジェンドに学ぶ ものづくりの真髄」講演会はスタートしました。

モータージャーナリスト・山口京一さんが3名の紹介かたがた開陳したのが、なんと小早川隆治さんの幼少期の写真。ミニチュアカーを抱えたその姿、将来像を予感させる写真は、インパクト大のつかみでした。

そして、マツダのル・マン制覇の思い出写真へと続きます。この頃の著名ドライバーも山口京一さんにとっては旧知の関係で、親しげにその名を呼ぶさまは重鎮としての貫禄を感じさせます。

福田成徳さんが北米拠点の責任者だった頃、初代ロードスターを立ち上げたエピソードの端緒をほんのさわりだけ紹介。日本に戻った福田さんはFDの開発に着手するので、ここで小早川さんと人生が交錯することになります。

貴島孝雄さんの紹介の際は、山口京一さんがFC型RX-7のサスペンションの解説を受けているスナップ写真を紹介。博識のうえに歴史的資料の蒐集についても博物館も舌を巻くくらいの品揃え。あらためて感心します。

 

そして講演前に行われたのが、マツダ元社長であり稀代のエンジニアでもあった山本健一さんを偲ぶコーナーです。

太平洋戦争時に帝国大学を繰り上げ卒業、戦闘機製造にかかわったのが社会人としてのスタートだった山本さん。その後、東洋工業(現在のマツダ)にとトランスミッション担当として入社します。そしてR360の祖である、三輪トラックを担当。もはやマツダすらも所有していないであろう秘蔵写真をひもときながら紹介が続きます。

 

そして1959年、ロータリーの祖である独NSUとヴァンケル研究所がロータリーエンジンを実用化します。当時の試作エンジンは現在のマツダローターリーとも共通点が多いサイドポートだったそうですが、アウトバーンで狙った性能を出すことができず、開発はあきらめたそうです。

当時の社長・松田恒次社長が当時の通産省主導で進められた自動車メーカーの再編(という名の縮小)に抗うべく、ロータリーエンジン開発を宣言。山本さんを開発部長へと任命します。当時は「左遷」だと思われたこの異動に、開発者魂に火がついたそうです。

ちなみに山口さんは1964年のNSUヴァンケルスパイダーの試乗会にも参加しているそうです。当時の試乗会は要ネクタイ着用という厳しいドレスコードが設けられていました。当時はダイムラーベンツもロータリーエンジンを市販寸前まで開発しており、それにも試乗していたそうです。

その後、モータースポーツでも鍛えられたロータリーエンジン。山本さんは、闘うライバルへも敬意をはらっていたジェントルマンだったそうです。

(畑澤清志)