戦艦大和の最期を見届けた駆逐艦も眠る。北九州市の「軍艦防波堤」を訪ねる

■ドライビングスポット「軍艦防波堤」

●船体を見ることができるのは福岡県の響灘沈艦護岸

駆逐艦柳の船体を見ることができる福岡県北九州市の軍艦防波堤

軍艦防波堤は、終戦後の港湾整備の工期短縮のために不要となった艦艇を防波堤として再利用したものです。

軍艦防波堤は秋田港や小名浜港(福島県)などにもありますが、福岡県北九州市若松区響町にある軍艦防波堤は、駆逐艦柳(初代)の船体が露出していることで有名です。

北九州市の軍艦防波堤は、正式には「響灘沈艦護岸」と言いますが、軍艦防波堤と呼ぶのが一般的なようですので、ここでも軍艦防波堤と呼びます。

場所は製鉄所で有名な戸畑の北側。国道495号線響町入口交差点から響灘1号道路を通ってアプローチすることができます。

軍艦防波堤は若松・戸畑の北側にあります。ⒸGoogle

軍艦防波堤が造られた当時、この辺りは陸地ではなく、響灘の真っ只中にありました。終戦後、若松港(現在は北九州港の一部)のある洞海湾を響灘の荒波から守る防波堤を770m建設。このうち約400mは駆逐艦柳(初代)、凉月、冬月を沈設して防波堤としました。

船体は上部構造物を撤去し、下部をコンクリートで固定。内部には岩石や土砂を詰め込んでいましたが、当初は船内に入ることもできたそうです。

しかし、響灘の波に痛めつけられて船底はやがて崩壊。1961年に凉月と冬月はコンクリートに埋められてしまいました。

一方、柳は完全には埋められませんでした。2000年に船体の周囲をコンクリートで補強しましたが、それでも船体の形が分かる状態になっています。

コンクリートの補強は船首部分で終わり、船体中央部は比較的船体が多く見える部分になっています。船体は後部に向けて徐々にコンクリート岸壁に埋まって行きますが、船体の輪郭ははっきり分かります。

船体の上に立ってみると、隔壁もしっかり残っているのが分かります。それにしても、柳は思ったよりも小さいという印象でした。

船体中央部から船首を見た様子。船体の隔壁も残っています

柳(初代)の全長は88m、最大幅は7.62m。第二次世界大戦の主力だった吹雪型の全長115m、最大幅10.36mよりはかなり小型ですが、柳が竣工したのは1917年で、当時としてはそれほど小さくなかったようです。

柳は第一次世界大戦で活躍。1940年に除籍されて練習船となり、第二次世界大戦を過ごしました。

●大和と共に戦った凉月と冬月の今

軍艦防波堤にあるもう2隻の凉月と冬月は、ともに秋月型防空駆逐艦で、第二次世界大戦中に竣工しました。全長は132m、最大幅は11.6mとかなり大型な駆逐艦でした。凉月と冬月は戦艦大和の最後の出撃となった、沖縄特攻「天一号」「菊水」作戦に参加しました。

凉月は坊ノ崎沖海戦で被弾して大破。前進すると沈むほどのダメージだったため、佐世保まで後進して帰還したという話が有名です。

冬月は、沈没した艦船の乗組員600名以上を救助して佐世保に帰還しています。戦後は特別輸送艦に指定されて、機雷の掃海に従事後、凉月とともに軍艦防波堤とされました。

軍艦防波堤にある説明板

軍艦防波堤にある説明板によると、柳、凉月、冬月はほぼ一直線に並んでいて、凉月と冬月は船首を突き合わせる形になっているようです。

凉月が埋没している場所から柳を見るポイント

凉月は船体後部約2/3が岸壁に埋まっていて、船首部分約1/3は関係者以外立入禁止の荷さばき地となっています。

冬月が埋没している荷さばき地

冬月は大部分が荷さばき地に埋没。船尾が港湾道路と倉庫にかかっていますが、痕跡はありません。

戦争で国民を守るために戦った駆逐艦は、今も自然から国民を守り続けています。

(ぬまっち)

この記事の著者

ぬまっち(松沼 猛) 近影

ぬまっち(松沼 猛)

1968年生まれ1993~2013年まで三栄書房に在籍し、自動車誌、二輪誌、モータースポーツ誌、鉄道誌に関わる。2013年に独立。現在は編集プロダクション、ATCの代表取締役。子ども向け鉄道誌鉄おも!の編集長を務める傍ら、自動車誌、バイク誌、鉄道誌、WEB媒体に寄稿している。
過去に編集長を務めた雑誌はレーシングオン、WRCプラス、No.1カーガイド、鉄道のテクノロジー、レイル・マガジン。4駆ターボをこよなく愛し、ランエボII、ランエボVを乗り継いで、現在はBL5レガシィB4 GTスペックB(走行18万km!)で各地に出没しています。
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