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■天下分け目の戦い、関ケ原の戦いが開戦
1600(慶長5)年10月21日、岐阜県の関ケ原で天下分け目の戦いと呼ばれた「関ケ原の戦い」が始まりました。豊臣秀吉亡き後の勢力争いのため、有力な戦国時代の武将が徳川家康率いる東軍と石田三成の西軍に分かれ、総勢20万人が激突した戦国時代最後で最大の戦いでした。ところが、戦力的には五分であったにも関わらず、勝負はあっけなくわずか半日で徳川の東軍に軍配が上がりました。小早川秀秋の裏切りや毛利など主力部隊が参戦しなかったためと言われていますが、こういった裏切りや密約などの数々のエピソードは、今も小説や映画などを通して語り継がれていますね。
さて、クルマ界の今日は何があったのでしょう?
●日産と富士重工が資本提携
1968(昭和43)年のこの日、日産自動車と富士重工(現、スバル)が資本提携を結びました。この提携によって富士重工は、日産の傘下として一部のモデルの受託生産などを行っていました。その後、30年におよぶ提携関係が続きましたが、1999年に日産が経営危機に陥ってルノー傘下となったため、富士重工と日産の提携は解消されます。この時、日産出資分をGMが取得したので、富士重工は1999年末にGMグループに入りましたが、今度はGMが経営不振となって提携を解消、2005年にはトヨタと資本提携を結び、現在はトヨタグループ傘下に収まっています。という具合に紆余曲折を経験しているスバルですが、揺るぎないスバルブランドを長く維持しているのは、立派ですね。
●水平対向エンジンなど先進技術満載の富士重工スバル1000発表!
1965(昭和40)年のこの日、富士重工が「スバル1000」を発表、翌年1966年5月から発売を始めました。国民的な人気となった軽乗用車「スバル360」に次ぐ富士重工初の小型乗用車です。
スバル1000は、スバルらしい先進技術をいち早く取り入れていることで注目されました。駆動方式は、RR(リアエンジン・リアドライブ)のスバル360とは一転して、当時としては画期的なFFを採用し、広い室内空間を実現しました。パワートレインは、1.0L 水平対向4気筒OHVエンジンと4MTの組み合わせ。水平対向エンジンは、軽量コンパクトで振動が少ない特長を持ち、また車両としては低重心が保たれるのでレスポンスと操縦安定性に優れる利点があります。その他にも、4輪独立サスペンションやブレーキをドライブシャフトのデフ側に置くインボート・ブレーキ、デュアルラジエターなど先進的な技術が採用されました。
スバル1000のデビューによって、富士重工は軽自動車メーカーから脱却し、本格的な自動車メーカーとしての第一歩を歩み始めます。ところが1966年はカローラとサニーがデビューした年でもあり、スバル1000は販売では苦戦しました。技術的にはカローラとサニーより先進的でありながら、個性よりも平均的で中流であることを好んだ当時の市場では、受け入れられなかったということでしょうか。
水平対向エンジンやFFなど高い技術に挑戦する富士重工の姿勢は、このスバル1000から始まり、現在のスバル車に脈々と受け継がれていますね。
毎日が何かの記念日。それではまた明日!
(Mr.ソラン)