大衆車時代を切り開く日産「ダットサン・サニー1000」デビューの1966年は、なぜマイカー元年と呼ばれたのか【歴史に残る車と技術024】

■マイカー時代の先陣を切って登場した「サニー」

1966年にデビューしたダットサン・サニー
1966年にデビューしたダットサン・サニー

1960年代に入り、日本は高度経済成長期の真っ只中を迎えており、国産車が街々を走るようになりました。そんな1966(昭和41)年4月23日に日産自動車から発売されたのが、「ダットサン・サニー」でした。

低価格ながら、確かな性能と信頼性を身に着けた大衆車サニーは大ヒット、日本のモータリゼーションをけん引したのです。


●車を誰でも手の届くように大衆化させた「サニー」

1960年代、日本は前例のない高度経済成長を迎え、所得倍増計画などによってサラリーマンの収入は激増し、日本中が豊かな生活を手に入れました。1964年の東京オリンピック開催を契機に、新幹線や高速道路などの建設ラッシュが続き、これにより車の普及も進み、日本のモータリゼーションに火がつきました。

それまで乗用車を購入するユーザーの大半は、富裕層かタクシーなどの法人でした。それが、国民の所得増大によって車は一般大衆でも入手可能な存在となり、販売ターゲット層が一般大衆、サラリーマン層に替わったのです。

そうは言っても、すでに発売されていた100万円を超える高級車「クラウン」や「セドリック」というわけにもいかず、一方で、安価な当時の軽自動車では高速道路を走るにも力不足でした。

そこで一般大衆が求めたのは、サニーのような1Lクラスの大衆車。サニーの車両価格は、スタンダードで41万円、デラックスで46万円。これは当時の平均的なサラリーマンの年収100万円の半分以下であり、サラリーマンでも手の届く価格だったのです。

●サニー誕生の背景にあったダットサン110とブルーバード

ダット自動車製造を引き継ぐ形で1933年に設立された日産自動車(当初は、自動車製造)は、ダットサンと名のつく乗用車やトラックの製造を開始。戦後は、英国オースチン社と技術提携を結び、ノックダウン生産をしながら技術を吸収し、1955年に完全オリジナルの小型乗用車「ダットサン110」を市場に投入しました。

1955年に登場したダットサン110(ブルーバードの前身)
1955年に登場したダットサン110(ブルーバードの前身)

ダットサン110は、当時としては珍しいボディパネルすべてをプレス成型した完全金属ボディで、25PSを発生する860ccサイドバルブ式直列4気筒エンジンを搭載し、最高速度は79km/hを発揮しました。

ダットサン110は堅調な販売を続け、1959年に「ダットサン・ブルーバード」にバトンを渡す形で生産を終了。ブルーバード(310型)は、上級志向の小型乗用車として人気を集めましたが、1963年に登場した2代目(410型)は1.2L以上を主力とするモデルとなったため、日産では1.0L以下クラスの小型乗用車が存在しなくなりました。

その穴を埋めるために開発されたのが、1.0Lの大衆車ダットサン・サニーだったのです。

●軽量ボディで爽快な走りが人気を呼んだサニー

当時、排気量1.0L以下の大衆車としてトヨタ「パブリカ」やマツダ「ファミリア」、ダイハツ「コンパーノ」などが存在していましたが、市場を席巻するには至っていませんでした。

ダットサン・サニーの後ろ外観。当時は、セダンでも2ドアが一般的
ダットサン・サニーの後ろ外観。当時は、セダンでも2ドアが一般的

そんな市場に日産が満を持して投入したサニーの最大の特徴は、新開発の一体成型システムで、剛性を確保しながら外板の薄肉化によって達成した、車両重量625kgの軽量化であり、それを生かした優れた動力性能でした。

ダットサン・サニーの主要諸元
ダットサン・サニーの主要諸元

長いノーズに傾斜したリアウインドウで構成される、ファストバック風の当時としては斬新なスタイリング。搭載されたエンジンは、最高出力56PSを発揮する1.0L直4 OHVで、最高速は135km/hを超えて1.5Lクラスの爽快な走りを見せました。しかも、車両価格は標準仕様で41万円と、軽自動車のハイグレード並みだったのです。

発売後、サニーは高い評価を受けて5ヶ月で3万台を超える販売を記録し、その年の12月には月販台数が1万台の大台を突破。また半年後の11月にはトヨタからライバルの初代「カローラ」も登場し、大衆車の市場規模は2年間で倍増しました。その起爆剤になったのは、間違いなくサニーだったのです。

●大々的なティザーキャンペーンもサニー成功の一因

サニーは、デビューの半年前の1965年12月に、大衆車時代を飾るにふさわしい大々的なティザーキャンペーンを展開、同時に車名の一般公募も行いました。発売の2ヶ月前の2月には、東京オリンピックの会場としても使われた東京体育館で、800万通を超える応募の中から選ばれた車名、“サニー”が大々的に発表されたのです。

ティザーキャンペーン(じらし広告)とは、新型車の発売前に意図的に部分的な情報を流して、消費者の興味を引きつける手法で、今では当たり前のように使われていますが、当時としては珍しい宣伝手法でした。

ちなみに、サニー以外に一般公募によって車名が付けられた車として、トヨタ「パブリカ」、三菱自動車「パジェロミニ」、日産「マーチ」があります。

●サニーが誕生した1966年は、どんな年

1966年は、サニーとカローラが国民的な人気を得て大衆車市場を切り開いたことから、“マイカー元年”と呼ばれています。同年には、トヨタ「カローラ」の他に、富士重工業「スバル1000」、プリンス自動車「プリンスR380」も登場しました。

1966年にデビューしたサニーのライバルである初代トヨタ・カローラ
1966年にデビューしたサニーのライバルである初代トヨタ・カローラ

カローラは、サニーの約半年後の11月にデビューし、サニーとともに日本のモータリゼーションをけん引した、現在も人気のロングセラーモデル。

スバル1000はスバル初の小型車で、FFレイアウトや水平対向エンジンを搭載した先進技術が特徴。

プリンスR380は、打倒ポルシェ904のためにプリンス自動車が開発したレース用マシンで、1966年第3回日本グランプリにおいて1、2フィニッシュを飾った高性能モデルです。

その他、この年には日本の人口が1億人を突破し、ビートルズが来日してミニスカートとロングブーツが流行りました。TV番組「笑点」と「ウルトラマンシリーズ」の放映が開始され、江崎グリコの「ポッキー」、明星食品「チャルメラ」とサンヨー食品「サッポロ一番」の発売が始まりました。

1966年にデビューしたスバル1000、スバル初の小型車
1966年にデビューしたスバル1000、スバル初の小型車

また、ガソリン51円/L、ビール大瓶120円、コーヒー一杯76.5円、ラーメン70円、カレー126円、アンパン16円の時代でした。

カローラとともに日本のモータリゼーションをけん引し、手の届かなかった車を大衆化させる立役者となったダットサン・サニー。日本の歴史に残る車であることに、間違いありません。

Mr.ソラン

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Mr. ソラン

某自動車メーカーで30年以上、自動車の研究開発に携わってきた経験を持ち、古い技術から最新の技術までをやさしく解説することをモットーに執筆中。もともとはエンジン屋で、失敗や挫折を繰り返しながら、さまざまなエンジンの開発にチャレンジしてきました。
EVや燃料電池の開発が加速する一方で、内燃機関の熱効率はどこまで上げられるのか、まだまだ頑張れるはず、と考えて日々精進しています。夢は、好きな車で、大好きなワンコと一緒に、日本中の世界遺産を見て回ることです。
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