日本初の純国産車「トヨペットクラウン」登場時の価格は101.486万円で大卒初任給の100倍【歴史に残る車と技術004】

■純国産の技術と部品で作られた純国産車のパイオニア

1955年に誕生した初代クラウン(トヨペットクラウン)。日本初の純国産車
1955年に誕生した初代クラウン(トヨペットクラウン)。日本初の純国産車

1955年(昭和30年)1月7日、日本を代表する高級乗用車クラウンの初代「トヨペットクラウン」が誕生しました。戦後間もなく、多くのメーカーが欧米のノックダウン生産を選択する中、トヨタが目指した完全オリジナルの国産車、それがトヨペットクラウンでした。


●トヨタの車づくりは戦前の豊田自動織機から始まった

トヨタ自動車のルーツは、1926年に豊田佐吉氏によって設立された豊田自動織機製作所です。

トヨタ初の自動車となったG1型トラック
トヨタ初の自動車となったG1型トラック

自動車の将来性に注目した長男の豊田喜一郎氏は、1933年に豊田自動織機内に自動車製作部門を設置し、“日本人の手で日本人のための国産車を作る”という理念のもと、エンジンからボディまで完全オリジナルの乗用車の開発を目指しました。

1934年には、シボレーのエンジンを参考にしたA型エンジンの試作機が出来上がり、1935年5月にはA型エンジンを搭載した試作車「乗用車A1型」が完成。ところが当時は戦時中であり、政府が求めたのは軍事にも使えるトラックでした。

1936年に発売されたAA型乗用車(タクシー用)
1936年に発売されたAA型乗用車(タクシー用)

トヨタは、急遽トラックの生産を優先させ、同じA型エンジンを搭載した「G1型トラック」の生産を1935年に開始。乗用車についても諦めていたわけではなく、翌1936年にはA1型を改良した「AA型乗用車」の生産も始めました。

●戦後、乗用車の生産が解禁されてトヨペットSA型登場

第二次世界大戦後、日本はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から乗用車の生産を禁止されたため、トヨタもトラックの生産から再開しました。

その間も、トヨタは乗用車の開発を継続し、1947年6月に“排気量1500cc以下の乗用車なら年間300台限定の生産が許可”されたため、同年10月に戦後初の乗用車「トヨペットSA」を市場に投入します。

1947年にデビューしたトヨペットSA
1947年にデビューしたトヨペットSA

トヨペットSAは、フォルクスワーゲンの「ビートル(タイプ1)」のような曲面を多用したスタイリングで、バックボーンフレームにボディを載せた構造で、995ccの水冷直4サイドバルブ式エンジンを搭載。先進的な4輪独立懸架が採用されましたが、当時の道路事情ではメリットは生かせず、逆に耐久信頼性に課題があり、現場は修理に追われました。

戦後の混乱期でもあり、トヨペットSAは約4年間で197台の生産にとどまり、成功とは言えませんでしたが、その市場実績は後に登場するトヨペットクラウンの開発に生かされたはずです。

●純国産乗用車のパイオニアとなったトヨペットクラウン誕生

1955年、トヨタは満を持して完全オリジナルの本格的な乗用車「トヨペットクラウン」を世に送り出します。

世界レベルを目指したトヨペットクラウンには、多くの先進的な技術が投入され、X型フレームにフロントサスペンションはダブルウィッシュボーン/コイル独立懸架、リアは改良型リジッドリーフ、ドアは後席の乗降性を向上させるために観音開きが採用されました。

トヨペットクラウンの主要スペック
トヨペットクラウンの主要スペック

パワートレインは、1.5L直4 OHVエンジンと3速MTを組み合わせたFRで、最高速度は100km/hを達成。当時のアメ車風のデザインで、日本の道路事情に合わせて作り込んだトヨペットクラウンは、当時の外国部品で組み立てた国内車より高い評価を得ることができたのです。

ただし、車両価格は101.486万円で、当時の大卒初任給1.1万円の100倍近い価格。単純に計算すれば今なら2000万円以上なので、ハイクラスのユーザーやハイヤー・タクシー用として人気を博しましたが、まだまだ高嶺の花でした。

同年1955年には、鈴木自動車(現、スズキ)が日本初の軽乗用車「スズライト」を発売。こちらの価格は42万円で、単純計算で現在の価値では900万円前後、軽自動車と言えども相当な贅沢品であることが分かりますね。

ちなみに当時のガソリン価格は、37円/L、ビール(大瓶)125円、散髪代154円、都バス1区間15円、NHK受信料300円でした。トピックスとしては、東京通信工業(現、ソニー)から日本初のトランジスタラジオが発売され、小さな物をトランジスタ○○と呼ぶ言い方が流行りました。

●日本の自動車技術を加速した国民車構想

トヨペットクラウンがデビューした4ヶ月後の1955年5月に、通産省から乗用車の開発を促進するための「国民車構想(国民車育成要網案)」が発表されました。国民車構想とは、下記の要件を満たす自動車の開発に成功すれば、国がその製造と販売を支援するという内容です。

・定員4人、排気量350cc~500cc
・最高速度100km/h以上、車速6km/hでの燃費30km/L
・販売価格25万円以下など

実際には、目標が高すぎて自工会が達成不可能と表明するなどして実現できず、国民車構想そのものは不発に終わりました。しかし、乗用車の国産化技術の発展に、大きく貢献したと評価されています。

●純国産車の火付け役となったトヨペットクラウンと国民車構想

トヨペットクラウンの登場と国民車構想が火付け役となり、1950年代後半から続々と純国産が登場しました。

1957年に誕生した初代スカイライン(プリンス・スカイライン)。重厚なアメリカンスタイルの高性能セダン
1957年に誕生した初代スカイライン(プリンス・スカイライン)。重厚なアメリカンスタイルの高性能セダン

・1957年:トヨタ「トヨペットコロナ」、日産自動車「ダットサン1000」、富士精密(プリンス自動車の前身)「スカイライン」

・1959年:富士精密「グロリア」、日産「ブルーバード」

・1960年:トヨタ「2代目コロナ」、日産「セドリック」

当時は、まだ中級・高級車が中心ですが、1960年代中頃からカローラやサニーといった、比較的手ごろな価格の大衆車が登場。一方で、日本は1960年代に入って高度成長期を迎えて国民の所得も上昇、これを機に本格的な日本のモータリゼーションとマイカーブームが幕開けたのでした。


日本の純国産乗用車のパイオニアとなったトヨペットクラウン、日本の歴史に残る車であることに、間違いありません。

Mr.ソラン

この記事の著者

Mr. ソラン 近影

Mr. ソラン

某自動車メーカーで30年以上、自動車の研究開発に携わってきた経験を持ち、古い技術から最新の技術までをやさしく解説することをモットーに執筆中。もともとはエンジン屋で、失敗や挫折を繰り返しながら、さまざまなエンジンの開発にチャレンジしてきました。
EVや燃料電池の開発が加速する一方で、内燃機関の熱効率はどこまで上げられるのか、まだまだ頑張れるはず、と考えて日々精進しています。夢は、好きな車で、大好きなワンコと一緒に、日本中の世界遺産を見て回ることです。
続きを見る
閉じる