ヤマハ発動機の本社移転50周年に行われた、ジュビロ磐田のホームゲームでのキックイン・セレモニー

■真の国際企業に向けて、世界的スポーツのサッカー部を創設し、J1に参入

ヤマハ発動機の広報グループが発信している「ニュースレター」。今回の話題は、Jリーグのジュビロ磐田です。

企業にとってプロスポーツは、自社やブランドをアピールするだけでなく、地域社会に根付くことで多様な広がりが期待できます。Jリーグは、百年構想を掲げ「地域に根ざしたスポーツクラブ」を目指しています。

ヤマハ発動機
建設中の本社社屋。1972年2月14日、札幌オリンピック閉会式の翌日に、本社を磐田市に移転

「ジュビロの生みの親」として知られる故・荒田忠典さん(同社の元副社長)は、生前、サッカー部創部の背景について、「都市対抗野球で浜松市民の皆さんがヤマハ! ヤマハ! と日本楽器製造(現・ヤマハ)に大きな声援を送っている姿を見て、ヤマハ発動機もこの新しいホームタウンに根を張って、市民の皆さんから応援していただけるような存在になっていきたいと考えました。それが、サッカー部(現・ジュビロ磐田)創部の趣意となりました。
スポーツで地域に貢献し、交流をしていきたいという話になったのは、役員昼食会の席でした。野球やラグビーなども候補にあがりましたが、最終的には全員一致でサッカーに決定しました。真の国際企業に向けて本格的なスタートを切ろうとしているこの会社に、サッカーというワールドスポーツの躍動感がとても似合うように思えたからです」と語ったそうです。

ジュビロ磐田
ヤマハスタジアムで行われたC大阪戦で、”ARIGATO, IWATA”のメッセージTシャツを着て入場したジュビロの選手たち

1955年、現在の浜松市浜北区に創立されたヤマハ発動機。その本社が磐田市に移転されたのは、1972年2月。18万平方メートルという広大な敷地は、その時代で例えるところの「後楽園球場40個ぶん」。

輸出ドライブを背景に、生産60万台体制を築くことを目指し、手つかずの広大な土地、確かなものづくりに欠かせない堅牢な地盤を持つ磐田の地を、真の国際(グローバル)企業に向けてチャレンジするための本拠地とする移転だったそう。

なお、同社が磐田市に本社を移転した当時、太平洋ベルト地帯構想で注目を集めていたこの丘陵地帯には、時を同じくしていくつもの企業が工場を建設。磐田原台地の開発は、東名高速の全線開通でさらに加速したそうですが、当時はまだ建物もまばらで、 現在のヤマハスタジアムのピッチのあたりには馬が放牧されていたというから驚きです。

2022年9月17日、ヤマハスタジアムで開催されたJ1リーグ第30節の対セレッソ大阪戦。ヤマハ発動機の日髙祥博社長はキックオフ前に「本社移転50周年、サッカー部創部50周年という節目にあたり、あらためて磐田市、そして市民の皆様にお礼を申し上げます」と挨拶しました。

選手たちが「ARIGATO, IWATA」とプリントされたTシャツを着てピッチに姿を現すと、もう一度、スタンドに向けて頭を下げ、キックインのセレモニーが行われました。

ヤマハ発動機
本社移転前の1966年に磐田第1工場を建設。操業を開始したばかりの工場から出荷されたのは、自動車エンジン事業の起点となった「トヨタ2000GT」

同社は、50年前の1972年当時、従業員数は7000人ほどだったそうですが、現在は連結で5万人を超え、約1200億円だった売上高は、2兆円(連結)に手が届くところまで成長しています。

本社移転の大きな原動力となったグローバル化という視点でも、海外連結子会社は4社から105社まで拡大し、世界180を超える国と地域でビジネスが展開されています。

ヤマハスタジアムでのセレモニーは、そうした成長、発展をホームタウンから支えた地域の方にあらためて感謝の意を示したものでした。現在、J1残留に向けて正念場を迎えているジュビロ磐田。この日は、終盤の反撃で2点のビハインドを追いつく執念のドローゲームになっています。

(塚田勝弘)

この記事の著者

塚田勝弘 近影

塚田勝弘

1997年3月 ステーションワゴン誌『アクティブビークル』、ミニバン専門誌『ミニバンFREX』の各編集部で編集に携わる。主にワゴン、ミニバン、SUVなどの新車記事を担当。2003年1月『ゲットナビ』編集部の乗り物記事担当。
車、カー用品、自転車などを担当。2005年4月独立し、フリーライター、エディターとして活動中。一般誌、自動車誌、WEB媒体などでミニバン、SUVの新車記事、ミニバンやSUVを使った「楽しみ方の提案」などの取材、執筆、編集を行っている。
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