目次
■ホンダの名を世界に知らしめた技術者であり、企業家の本田宗一郎が永眠
数々の偉業を成し遂げた本田宗一郎は、31年前の1991年(平成3)年8月5日に亡くなりました。自動車の修理業から一代で、2輪、4輪、モータースポーツの世界でホンダの名を轟かせ、世界のホンダを築き上げました。また技術者、起業家としての数々の功績とともに、多くの名言やエピソードを残しています。
●自動車修理業に始まり、“世界のホンダ”に飛躍した華麗な略歴
本田宗一郎は、1906(明治39)年に現在の静岡県浜松市で鍛冶屋の長男として生まれました。16歳で上京して自動車修理工場「アート商会」に入社。その後1928年に、地元浜松に戻ってアート商会の支店を設立しますが、自動車修理業に限界を感じて1937年に「東海精機重工業(現、東海精機)」を設立、ピストンリングなどの製造業に取り組みます。しかし、1945年に発生した三河地震による工場の倒壊を機に、東海精機重工を「豊田織機」に売却します。
1946年に「本田技術研究所」を設立し、まず自転車にエンジンを搭載した2輪とエンジンの開発に取り組み、1948年「本田技研工業」を設立(ホンダ創業)します。
自転車に搭載するエンジンから始まったホンダの2輪は、レースでの活躍とともに世界へ飛躍。1963年には4輪事業に進出して優れた技術で4輪でも成功し、名実ともに世界のホンダへと成長しました。その後も、社長、最高顧問として長くホンダをけん引し、引退後の1991年のこの日、84歳で逝去されました。
●一代で成し遂げた数々の功績
1946年から2輪の本格的な開発を始め、スーパーカブなどのオートバイを発売。1960年代には2輪で世界のトップメーカーへと成長。一方でレースにも積極的に参戦、1961年には世界GPのマン島TTレースで優勝を果たします。2輪の成功を受けて、1963年に4輪にも進出。翌年にはF1に参戦して、1965年のメキシコGPで初優勝という快挙を成し遂げました。
1972年、ホンダは当時クリアすることが困難とされていた排ガス規制「米国マスキー法」を、独自開発したCVCCエンジンによってクリアして、世界を驚かせました。CVCCは、副室付きの燃焼方式で希薄な燃焼を成立させる新しい燃焼方式。燃費を悪化させることなく、排気ガスを低減させる画期的なエンジンでした。CVCCを搭載した初代シビックは世界中で大ヒットして、4輪でも世界のホンダの確固たる地位を築き上げました。
その後もホンダの躍進は続き、本田宗一郎は2輪、4輪、モータースポーツでホンダの名を世界に轟かせ、世界のホンダを築き上げました。
●語り継がれる代表的な技術的なエピソード
本田宗一郎については、さまざまなエピソードや名言が語り継がれています。ここでは、技術的な話について紹介します。
・東海精機重工時代にピストンリングの製造を始めましたが、耐久信頼性の課題が解決できませんでした。知識のなさを痛感して、浜松高等工業学校(現、静岡大学工学部)の聴講生となり、3年間金属工学を猛勉強。
・1958年に生産を開始したスーパーカブのエンジンは、コンパクトで安価な2ストロークが全盛の中で本田宗一郎の強いこだわりによって、異例の4ストロークエンジンを採用しました。スーパーカブは、世界最多の量産オートバイとして2017年には世界生産1億台を達成。
・軽量コンパクトで安価な空冷エンジンに最後までこだわり、水冷エンジンを推奨する技術者と確執が生まれました。技術者の大反対を押し切り、1969年に空冷エンジンの「ホンダ1300」を発売。しかし、空冷式の弱点を露呈する形で市場の評価は得られず、早々に生産中止になりました。これを機に、技術者として一線から身を引くことを決断。
本田宗一郎のさまざまなアイデアの基本は、「人の真似をしないスピリット」と「困っているところに需要を見つける先見の明」ではないでしょうか。数々の世界的なバイクレースやF1を制覇し、ホンダだけでなく日本の技術力を世界に知らしめた功績は大ですね。
毎日が何かの記念日。今日がなにかの記念日になるかも知れません。
(Mr.ソラン)