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■日本初の常設サーキットで開催された全日本自動車競技大会
1936年(昭和11)年6月7日、日本初の本格的な自動車レース「第1回全日本自動車競走大会」が多摩川スピードウェイで開催されました。多摩川スピードウェイは、多摩川の土手に舗装された観客席のある日本初の常設サーキットでした。
●多摩川スピードウェイは、鈴鹿サーキットの26年前に完成
当時は、競馬場や埋立地などの特設コースでバイクやクルマのレースが行われていましたが、観客席のある本格的な常設サーキットは、多摩川サーキットが初めてでした。今も多摩川の堤防には、当時の観客席の跡が残っています。コースの完成時期は5月とされ、この第1回全日本自動車競走大会がこけら落としのレースだったようです。サーキットは全長1200m、幅20mのオーバル(楕円)コースでした。
ちなみに現在の代表的なサーキットの開業時期は、鈴鹿サーキットが1962年、富士スピードウェイが1966年、スポーツランドSUGOが1975年、岡山国際サーキットとオートポリスが1990年、ツインリンクもてぎが1997年です。
●本田宗一郎が参戦するも、クラッシュで大ケガ
当時はまだ純国産車が希少で、走行する自動車のほとんどは輸入車でした。当日のレースにはフォードやベントレー、シボレーといった欧米の輸入車と日本の有志が製作した手作りマシンが競いました。エントリーの中には、後にホンダを創業する本田宗一郎の名前もありました。
この頃の本田宗一郎は、自動車修理工場でピストンの製造も手掛けるアート商会で働き、1928年にのれん分けでアート商会浜松支店を立ち上げていました。以前からレースに夢中になっていた宗一郎は、フォード車をチューニングした「浜松号」で参戦。トップを独走するもゴール直前に周回遅れのクルマを避けようとして横転、助手席の弟とともに、大ケガを負ったそうです。
●国産車部門で優勝したのは、「オオタ・レーサー」
記念すべき第1回の小型国産自動車部門で優勝したのは、下馬評の高かった日産のダットサンを退けた三井物産傘下のオオタ自動車工業の手作りマシン「オオタ・レーサー」でした。ダットサンが勝つものと信じていた日産創業者の鮎川義介は、勝てるマシンを造れと激を飛ばし、同年10月に開催された第2回大会ではダットサンが優勝を飾りました。
優勝したオオタ・レーサーは、最高出力23PSを発揮する排気量748ccエンジンを搭載していました。現在の660cc軽自動車の最高出力64PS(自主規制値)の約1/3ですね。
この年の1936年は、自動車製造事業法が成立して、9月19日に日産自動車と豊田自動織機の2社が認可され、本格的に国産車の製造がスタートした記念すべき年でもあったのです。
毎日が何かの記念日。今日がなにかの記念日になるかも知れません。
(Mr.ソラン)