スーパー耐久の前身?フェアレディZがレースで活躍し、トヨタや日産が市販車ベースで戦った時代を振り返る【モータースポーツ龍宮城・ゲート2】 

フェアレディZの凄さが分かる半世紀前のレジェンド・レース

初代フェアレディZが現れた頃、1960年代終盤の日本のレース界にはひとつの転換期が訪れます。それまで大排気量、大パワー、空力性能追求で毅然としたスーパーカーとしての主張を突き進む流れに傾倒していった自動車メーカー同士の戦いが、市販車ベースの、速くてカッコイイものを主張する方向に、レース現場は移っていったのです。メーカー側としてもモンスター的なマシンを披露して性能を誇示することだけを、闇雲に追求することはできなくなります。それはクルマが持つ地球環境保全への対応ハードル、今でいうところのカーボンニュートラルやSDGsが考えられるよりもずっと前の、排ガス対策への動きでした。その時代にもまた絵にもかけないシーンがいろいろとありました。

●レースが指し示すクルマ時代のゆくえ レースには力と美しさが必要だ

1970年7月の全日本富士1000kmレース
1970年7月の全日本富士1000kmレース、逆転に向けひた走る高橋国光の240Z

1960年代の後半、秋に開催されていた日本グランプリレースは日本中からの注目を浴びる年に一度の大イベントであっただけに、自動車メーカーは威信をかけての戦いを繰り広げていました。観客数も、1969年の富士スピードウェイで開催された日本グランプリは、10万人以上を集客しています。そのメインレースには、当時の国際レースでの車両規定で最上位カテゴリーともいえるグループ7の競技車両規定に準じている大排気量2座席のマシンを、メーカーは作り上げ投入してきました。

1966年からプロトタイプレーシングカーでの360kmほどのセミ耐久がメインレースになった日本グランプリでは、まだ日産との合併前のプリンスからはR380、トヨタからは2000GTがともに2リットルエンジンのスポーツカーでの参戦でした。年を追ってマシン規定でさらに大型エンジン許容となると、トヨタは3リットルV8のトヨタ7を1968年に投入、この年日産は5.5リットルV8のR381、翌1969年にはトヨタ7も5リットル、日産R382は6リットルV12エンジンと、年ごとの排気量アップ、性能アップで凌ぎを削りながら、滝レーシングなどの有力チームのもちこんできたポルシェ勢、ローラ勢などとの戦いを繰り広げていました。

●高性能の追求から排ガス対策へ

2005年12月のニスモフェスティバル
2005年12月のニスモフェスティバルで再会した日産 R380-II/R381/R382とToyota 7

ところが、光化学スモッグなどを誘発するクルマからの排ガスが大気汚染に多大な影響をもたらしていた頃でもあり、環境問題が頭をもたげます。賑やかな世相を物語る「1970年代のこんにちわ~」という三波春夫の「世界の国からこんにちは」の歌声が大阪万博を発信源に高らかに全国に響いていた頃でしたが、技術開発の矛先はレースで展開されていたクルマの高性能追求ばかりでなく、加えて、排ガス対処方向にも仕向けてゆかなければならなくなったのです。

北米へ日本から輸出されるクルマは70年の暮れに施行されることになる「マスキー法」と言われた厳しい排ガス規制の基準をクリアしなければならなくもなります。日本のレース界も活況を呈し始めてはいましたが、まだジャンル、カテゴリー、排気量区分のなりたちもGTやツーリングカー、それらベースの改造スペシャルやプロトタイプまで混沌としている時でした。ヨーロッパではレース界の頂点に君臨して超人技のスピードジャンルであったF1ですが、日本ではフォーミュラーカーでのレースそのものも、ようやくメインレースとして出てき始めた時代でした。

そんな中でモータースポーツ界には、年一の一大イベントとして全国のファンを惹きつけていた「日本グランプリ」が秋にあったのですが、その日本グランプリが開催されなくなるという痛手が襲います。1970年の10月10日に開催予定されていた日本グランプリ・レースに、日産は参加しないという声明を6月に発表。直面している公害安全問題に応じる急務があり、R382などの大型プロトタイプ・スポーツカーの開発にここ数年注ぎ込んできた力を割り振りできない、という理由でした。ただし日産は日本グランプリ当日に予定されるだろう市販車をベースとしているツーリングカー、グランドツーリングカーのレースは支援してゆくとも述べています。日産の不参加声明のあおりは強敵でもあったトヨタの不参加にもおよび、数日後には早くも主催者のJAFから、「この秋の日本グランプリは中止」との表明がなされます。中止の理由は現場サーキット借用料の折り合いが合わないといった揉めごとともとられるもので、メーカー以外でのレース参戦を望んでいたプライベートチームはもとより、観戦を望んでいたレースファンたちに向けての、今後のグランプリレース推進の動きなどが感じられない、単なる中止の表明でした…。

●衝撃のレース。ワークスを負かしたプライベーターのフェアレディZ

ともあれ、時代を象徴する動きがこもごも現れ出てきた1970年でしたが、そんな時代に呼応する先手を切ったかたちにもなったと思える、それが初代フェアレディZの登場だったのではないでしょうか。レースでの自社ブランドアピールが大型大排気量車の威圧ある勝利によるものから、レース参加者やレースファンたちにより広く受け入れられる身近な市販車としてのスポーツカーに派生してゆく流れに、フェアレディZはうまく乗り込んできたのです。

1970年5月の全日本鈴鹿1000km自動車レース
1970年5月の全日本鈴鹿1000km自動車レース、6番手からスタートの#19西野のフェアレディZ、ニットラAC7、ブルーバードSSS、コロナマークII GSSが続く

1970年に日産がワークスチームで投入してきたフェアレディのZ432は、スプリントレースでは既に実績のあるスカイラインGT-Rと同じエンジン、S20型の高性能エンジンでした。当然ながら杓子定規な想定でゆけば勝って当然、今ほどコンピューターでデータを緻密に解析しての想定ではありませんが、積み重ねられきた実績はあります。しかしレース展開では想定外は起こるもの。その想定外をスポーティに乗り越える力の見せ所がモータースポーツの魅力でもあるわけです。

5月の鈴鹿1000Kmでは、プライベートエントリーの西野弘美のフェアレディZがワークスのZ432達を破って勝利をとげたのでした。この偉業をしてやったりと思ったファンたちも大勢いたのではないでしょうか。西野のフェアレディZは予選7番手ながら、レース序盤から先行していったワークスチームのZ432たちが、点火系、オーバーヒートなどエンジン系トラブルもあり次次と脱落してゆくなか、一時先頭にたっていたいすゞのベレットR5をも捉えて、レース後半トップに立ちます。

●ワークスのZ432をねじ伏せたSOHCのフェアレディZ

Z432のエンジンは高回転での性能に長けていた4バルブDOHCエンジンのS20型エンジン、ツインチョークのキャブレターを3連する高性能技術が盛り込まれて、ピストンからバルブからフリクションロスもなくワークスチューンされていたはずです。が反面、当時の技術実験現場のレースからすればトラブル発生の可能性がある箇所が増えているということでもあったのでしょう。これに対し西野が調達したZは日産の大森から納入されたばかりのもの。2リットルSOHCのL20型、シンプルイズベスト、市販車としての信頼性だけともいえるものでした。Z432に比べてピーキーな回転数は劣るものの、低速トルクがより優れていたZを長いレースの戦いにうまく使いこなし、西野は追ってくるスカイラインGT-R、コロナ・マークII  GSSを引き離す独走へ、となったわけです。残り18周で予期せぬファンベルト切れに見舞われた西野でしたが、素早くピットイン対処。後続を2ラップほど引き離していたこともありトップを守り抜き、見事に優勝へ向かいました。

鹿1000km自動車レース
1970年5月の全日本鈴鹿1000km自動車レース、優勝は#19西野のフェアレディZ

走る実験現場のレース。日産ワークスは5月の鈴鹿1000kmで現れたZ432のトラブルシューティングに素早く対応したことでしょうが、次戦となる7月26日の富士1000kmレースでは、プライベーター勝者のZに触発されたこともあってか、それをエンジン選択肢の活用でこなしてきたのです。

車種バラエティに富んでいたフェアレディZのなかには、北米輸出仕様のダットサン240Zがありました。米国ユーザー向けにあつらえた240ZはL型SOHC6気筒エンジンで、鷹揚な乗り心地を味わえる2.4リットルのエンジン。鈴鹿の耐久レースでプライベーターのZに負けた日産ワークスの意地であったか、さらなる排気量アップバージョンのトルクフルな武器を積み込んだ1台を持ち込んだのでした。

●予選はワークスZが優勢。しかし決勝は波乱の展開に

真夏の過酷なレースコンディションは最近で言う熱中症対策のドライバーだけでなく、目一杯エンジンを回し続けることができるのか、まさにエンジンへの負荷は半端なものではないわけです。ワークスとしてのプライドのもと、何を見せつけてやろうか、といった対応だったのかもしれません。もとより耐久性などは、ラリーの日産と言わしめていた流れを受けて、世界ラリー戦に向けて鍛えていた「追浜パワー」の宿るものであったのかもしれません。気温30度を超える日、スタートを切った富士1000kmで240Zはデビューしました。

1970年7月の全日本富士1000kmレース
1970年7月の全日本富士1000kmレースは灼熱の中、11時にスタート

予選では高回転レスポンスのいいエンジンを持つZ432(都平健二/寺西孝利組)がポールポジション、2番手もZ432、そして北野元や砂子義一のGT-Rが3、4番手。1台でのデビュー戦となる240Z(高橋国光/黒澤元治組)はトップから1.8秒ほどの差で5番手。今回のレースは富士スピードウェイを右周りに進められました。

序盤は2台のワークスZ432が抜け出てトップ争いを展開してゆきますが、ここにスカイラインGT-Rのエンジンを積んだ2シーターマシンのスズキ・バンキン72Cの津々見友彦が食らいついてゆき、ついにトップへ躍り出ます。

スタート後1時間、各車の燃料補給ピットインが始まりますが、この辺りからコース上でのアクシデントがトップ争いマシンたちを襲います。北野元から横山達へ替わったGT-Rがヘヤピン手前の300Rでスピンからコースアウトそしてインへと弾かれ、後続のZ432がこれを避けようとしてコースアウトクラッシュ。その後数周後、都平健二のZ432もヘアピン立ち上がりで、スピンしていたロータス・セブンを避けきれず追突、リタイア。上位陣は波乱の展開になります。

この間もスズキ・バンキン72Cはトップを堅持してゆきましたが、ドライバー交代後、68周目にスピンを喫したのちブロック破損で惜しくも脱落。上位の5番手にいたもう一台の2座席プロトタイプのニットラAC7(田中弘/矢吹圭造)もオイルタンク破損でピットイン。

上位陣の脱落もあり、スタート時のエンジン始動で遅れていた240Zが挽回を続けて、終にトップへ。Z432、コロナマークII GSS(高橋晴邦/高橋利昭)、マツダ・ロータリークーペ(寺田陽次郎/岡本安弘)。まさに波乱万丈の展開は、さらに終盤にピークを迎えてゆくのでした。

●現在の富士SUPER TEC24時間レースとの意外な共通点

240Zの黒沢がトップを堅持しリードを広げ午後4時過ぎ。187周ほどを終え最後の燃料補給にピットイン。交代で高橋国光がコクピットに乗り込む。と、その時の点検で左後輪のハブボルト破損が発覚。交換対処で3分41秒のロスタイム。この結果代わってトップに立った長谷見のGT-Rに、なんと1周以上の差をつけられていました。

1970年7月の全日本富士1000kmレース
1970年7月の全日本富士1000kmレースにデビューしたダットサン240Z。トップからピットインするも騒然、乗り込んだのは高橋国光

残り50周もないなか、今度は長谷見が最後のピットイン、わずか1分で燃料補給し砂子に交代しピットアウトでZ432はトップに戻りました。国光とのその差は1分ほどあったのですが…。国光は力走を緩めることなく、詰め寄って行ったのです。

その差30秒に近づくと「注意」のピットサインが高橋に提示されます。同チームの優勝争い、チームオーダー的な動きがあったのかなど憶測をうむサインでもありましたが、しかし国光はまさに注意の中、純粋なスポーツを遂行、真っ赤な240Zはグランドスタンドの目前で観衆を奮い立たせる走りを見せ、そしてトップに立っていったのでした。

余談ですが6月3〜5日の、『NAPAC 富士SUPER TEC 24時間レース』には、新型フェアレディZが参戦するそうです。千客万来のこのイベント、フェアレディZとともにどういった展開になるのか、なぜか楽しみでなりません。主催者NAPACのメンバーには、「Z使いの柳田」との異名をとったレジェンドドライバーの柳田春人がいるのですから…。

●240Zとトヨタ7は大観衆を前に灼熱下で出会ったのか

1970年の富士1000kmレースは主催がトヨタ・モータースポーツ・クラブ(TMSC)でした。この年6月に秋の日本グランプリ不参加を表明していたトヨタの怪物マシン「トヨタ7」でしたが、トヨタはこのマシンで挑戦を計画していた北米で人気のレース、カナディアン−アメリカン・チャレンジカップ(通称カンナム:Can-Am)に向け開発を続けていました。計画が進められていたこともあり、秋のグランプリでのトヨタvs日産の再会バトルを楽しみにしていたファン達を慰めるための動きとも思われる、最新鋭のトヨタ7ターボのお披露目をこのイベントに盛り込んできたのです。

1970年7月の全日本富士1000kmレース
1970年7月の全日本富士1000kmレースで、最新型ターボ仕様も交えて走行披露が行われたトヨタ7

5リットルV8ターボエンジン搭載のトヨタ7は実に800馬力以上、巨大なウイングと特殊なアルミ合金で作りあげられたシャシーには眩しいほどのホワイトボディが流線的に被さり、リヤには巨大なウイングがましましていました。最速350km/hも記録していたと当時の誰もが驚愕するマシンでした。

レースの活用として技術開発とともに高い宣伝効果をかけてきたことから当然と言えば当然でもありますが、奇しくもこの富士1000kmのイベントでは、レースでの戦いではなく、すれ違いざまに相まみえるフェアレディZとトヨタ7があったのです。そして両車には、同じ北米市場をターゲットとしている動きがあったのです。

フェアレディZの生みの親とも言われている米国日産の初代社長、片山豊は北米での日産車販売を推進してきた伝説の男ですが、彼が北米に輸出するべくコンセプトをまとめあげ作り上げさせた2.4リットルエンジンのフェアレディZがダットサン240Zでした。

フェアレディZの初代240と新型Z
フェアレディZの初代240と新型Z

いっぽうのトヨタ7には、カンナム挑戦で実績をアメリカに知らしめ、絶大な人気を得るための企業アピール戦略があったのでしょう。トヨタ7はこの年ターボ仕様とし、中止となった日本グランプリのはるか先を目指して準備を進めていたのですが、無念ながら1970年の8月26日、若きスタードライバーの座にあった川合稔が開発テスト中に不慮の事故死に見舞われてしまいました。新型のトヨタ7プロジェクトもまた止まりました。

1970年真夏の富士1000kmレースは、怪物王ビッグマシン「トヨタ7」とレース乙姫スポーティ市販車「Z」がすれ違ってゆく時代推移の明暗が、大観衆の前で白日のもとに晒された、絵にもかけないレースイベントだったのです。

(文:游悠齋/写真:日産自動車、AUTOSPORT、SAN-EI Photo Archives フェアレディZ 1970、日本の名レース100選 ’70富士1000km)

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