1960年代、軽自動車市場は活況を呈しましたが、1970年代を迎えると自動車産業界は大きな試練に直面しました。第4章では、環境対応のために厳しい選択を迫られた鈴木自動車と軽自動車メーカーの動向について紹介します。
1973(昭和48)年に第1次オイルショックと本格的な排ガス規制が始まり、1978(昭和53)年には当時世界で最も厳しいと言われた「昭和53年排ガス規制」が施行されました。これらの厳しい環境対応のため、多くの軽自動車メーカーはパワーを出しやすい2ストロークエンジンから排ガスと燃費に有利な4ストロークエンジンへの置き換えを進めました。
ところが2ストロークに実績のある鈴木自動車だけは、最後まで2ストロークエンジンによる対応にこだわったのでした。
第4章 排ガス規制と2ストロークエンジンの危機
その1.軽自動車の勢いを失速させた排ガス規制とオイルショック
●方向転換が求められたマスキー法の制定
米国ではモータリゼーションとともに、すでに1950年代には環境汚染の問題が顕在化し、特に自動車が多いロサンゼルスでは、「光化学スモッグ」による健康被害が報告されるようになりました。光化学スモッグとは、排ガス中のNOxやHCが紫外線によって光化学反応を起こして、大気が白くモヤがかかったような状態になる現象です。
このような状況下、1970(昭和45)年、米国でマスキー上院議員提案の大気汚染防止法「マスキー法(俗称)」が制定されました。これは、1975(昭和50)年からはCO(一酸化炭素)、HC(炭化水素)、NOx(窒素酸化物)の排出量を、いままでのレベルの1/10程度にまで低減するという非常に厳しい排ガス規制でした。
この規制を世界で初めてクリアしたのは、1973(昭和48)年12月発売のホンダのCVCC(複合渦流調整燃焼方式)エンジンを搭載した「シビック」でした。
ただしマスキー法は米国ビッグ3メーカーの反対や第1次オイルショックによる経済の混乱、自動車業界の低迷によって計画通りには施行されず、実質的な法案の施行は1995年まで先送りされたのでした。
●世界を震撼させたオイルショック
排ガス規制とともに大きな衝撃を与えたのがオイルショックでした。
1973(昭和48)年、第4次中東戦争を機に、アラブ産油国が原油の減産と大幅な値上げを行い、世界的な経済不況が起こったのでした。
日本ではガソリン価格の高騰と石油資材(鉄鋼金属、ゴムなど)の値上げによる車両価格の上昇によって販売台数が大きく落ち込みました。ガソリン価格は60円台から120円台へ、一気に2倍に値上がりしました。
ガソリン価格の高騰はクルマづくりにも大きな変革をもたらしました。それまでの高出力志向のクルマに代わって燃費の良いコンパクトカーが注目され、米国市場では安価で燃費の良い日本車の販売が急伸しました。
コンパクトカーの燃費が改善した一方で、2ストロークエンジンを搭載した軽自動車の燃費の悪さがクローズアップされるようになってしまい、軽自動車にとってオイルショックは小型車や普通車以上に、より大きな逆風になったのでした。
●排ガス規制と軽自動車
日本の排ガス規制は、1966(昭和41)年のCO(一酸化炭素)の規制から始まりました。その後、米国のマスキー法にならい、1973(昭和48)年にCO、HC、NOxを規制する本格的な排ガス規制が施行、以後段階的に強化され1978(昭和53)年には世界で最も厳しいと言われた「昭和53年排ガス規制」が施行されたのでした。
当時の軽自動車は、小型で軽量、低コストの2ストロークエンジンを搭載していました。しかしその機構上、2ストロークエンジンは大量のCOとHCが排出されるので、排ガス規制に適合するためにコストがかかり、また、燃費が悪化するというジレンマを抱えていました。
そのため、多くのメーカーは2ストロークエンジンに見切りをつけて、4ストロークエンジンへの置換えを進めました。
ところが、2ストロークエンジンで実績のある鈴木自動車は最後まで2ストロークエンジンで対応することを決断したのでした。
(文:Mr.ソラン 写真:ホンダ、モーターファン・アーカイブ)
第16回に続く。
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