【第4回・2020年7月4日公開】
「コルク事業だけでは先がない」そう考えた松田重次郎は、早くから自動車事業に乗り出すことを念頭にしていたわけですが、当時の市場背景からいきなり4輪に乗りだすことはしませんでした。まずは手堅く2輪のバイクで始め、そして3輪トラックへと歩を進めていったのです。
第4回は、マツダが4輪参入前に歩んだ、2輪、3輪トラック事業の道のりを見ていきましょう。
第1章・自動車の発明とマツダの始まり
その4.自動車事業への参入を果たした3輪トラック「マツダ号DA型」
●まずはバイクの商品化
軍需中心の事業では、生産量が軍部の要求に依存して不安定であることから、松田重次郎社長は自前で量産できる次期事業として、自動車事業への進出を検討していました。しかし、当時の国産自動車の販売台数は数百台レベルで、自動車事業への参入は時期尚早、先送りにせざるを得ませんでした。そこで重次郎が着目したのが自転車。庶民の足として多くのひとびとに使われている自転車の一部をバイクが取って代われれば、量産可能な大きな事業になると考えたのです。最終目標はあくまで自動車製造でしたが、まずは軍需事業で得られた資金と技術を投入してバイクを量産すれば、利益も上がります。
東洋工業に社名変更した1927(昭和2)年の翌年にはイギリス製のバイクを2台輸入し、分解調査をしました。エンジンの製作は初めてでしたが、何とその2年後の1929(昭和4)年には排気量250ccの2ストロークエンジンを製作。翌1930(昭和5)年には6台の試作車を完成させ、その勢いで市販化にまでこぎつけてしまいました。
完成したバイクは、バイク(招魂祭)レースで外国製バイクを抑え、初出場にして初優勝という快挙を成し遂げました。
●バイクの次は荷馬車にエンジンを付けた3輪トラック
バイクの成功で自信をつけた重次郎は、1930(昭和5)年にはオート3輪の開発に着手しました。4輪車はまだまだ高価であり、3輪車なら操舵装置や駆動システムは2輪用がそのまま使えて価格が抑えられると考えたのです。
2輪から一気に4輪に飛ぶのではなく、まずは3輪車で実績を積むという道を選んだところに重次郎の事業への手堅さをうかがい知ることができます。すでに東洋工業に入社していた長男の松田恒次と竹林清三技師(後の副社長)が国内の3輪車の実態調査を行い、開発を任されました。
3輪トラックは小型自動車の規格に沿い、排気量500ccの4ストロークエンジンで製品化を目指しました。輸入車を参考にしながらも目標は「国産化」。エンジンや変速機などの重要部品は自社で開発しました。
●大ヒットした「マツダ号DA型」
東洋工業にとって未知の3輪自動車の販売という分野に進出するため、充実した販売網を持っていた三菱商事の協力を仰ぎ、1931(昭和6)年には東洋工業が生産する3輪トラックとその部品の販売を三菱商事が販売するという契約を締結しました。
3輪自動車の第1号は「マツダ号DA」と名付けられ、1931年10月から生産が始められました。マツダ号の登録商標は「Mazda」に三菱のスリーダイヤモンドを組み合わせたもの。マツダ号の名前の由来は、もちろん社長の「松田」姓をカタカナにしたものですが、ゾロアスター教の光明神「アウラー・マヅダー」も意識しています。マツダ号が自動車業界に光明をもたらすという願いが込められ、「マツダ」を「Mazda」とスペルする理由はここにあります。
「マツダ号DA」の「D」は差動装置(デファレンシャル)付き、「A」は型式を示し、9.4psの排気量482cc・ RS型エンジンを搭載しました。
フレームの強化や排気量アップといったブラッシュアップを図りながら、1932年の450台を皮切りに、翌1933年に700台、1934年に900台、1935年には1100台と、販売台数は年を追うごとに順調に伸ばしていきました。
1935年以降も台数は伸びましたが、その一方で大阪に居を構える発動機製造(現在のダイハツ工業)の「ダイハツ号」などのライバルが出現したため、シェアは落ち込み始めました。
(Mr.ソラン)
第5回につづく。
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