●実用性はないけれど、なにもかも愉しい
ボクがホンダ「S660」を買った理由は、そのピュアさに惚れたからだ。
軽自動車といえば実用性が求められがちだけれど、S660には実用性なんてまるでない。室内は狭くて2人しか乗れないし、ラゲッジスペースだってボンネットの下にわずかにあるだけ。機内持ち込みサイズのキャスター付きケースどころか1泊程度の旅行バッグも入るかどうか。
シートは低いから乗り降りだってしづらいし、天井は幌だから音も結構入ってきて快適とは言い難い。
はっきいってしまえば、バイクのようなものである。タイヤが4つあるから転倒しないし、屋根も窓もあるから雨風はしのげるし、バイクに比べると荷物も積める。そんな乗り物だ。快適性や利便性といった一般的なクルマの基準で評価すると何もない。
あるのは、気持ちのいいオープンドライブと軽快な走りだけだ。
人間っていうのは本当に贅沢、というか多くを求める生き物だと思う。クルマ選ぶときには「室内は広いほうがいい」とか「実用性が高いほうがいい」なんていって、その結果として軽自動車ではホンダ「Nボックス」のようなスーパーハイトワゴンに人気が集中する。
もちろん便利で実用性が高いことは正義だけど、それが人生において楽しいかどうかといえば、まったく別の話。人生を楽しむパートナーとして選ぶのであれば、S660のほうがよっぽど適している。
パッケージングはなんとも贅沢だ。走りを愉しむためのレイアウトだから後輪駆動で、エンジンを積むスペースを重視しているから室内にはゆとりがない。
でも、天気がいい日にこのクルマの屋根を開けて走るときの爽快感は、ほかのどの軽自動車にも負けない。いや、軽自動車という枠を忘れて考えても、ここまで楽しく移動できるクルマは多くない。クルマとの一体感が高いことも、交差点ひとつ曲がるだけでも味わえる軽快感も、なにもかもが楽しいのだ。
たまたま軽自動車の規格で作られた、本格スポーツカー。ボクはS660のことをそう思っている。
いまだから告白すると、彼女はボクがS660を買うこと歓迎しないと思った。だって、乗り降りがしにくいし、音だってうるさい。ボクが屋根を開けて走れば、流れる風が彼女の長い髪を乱してしまう。
そんなボクの心配を察するかのように彼女は言った。
「私ね、こういうの好きなんだよ。だって風が気持ちいいでしょう。だからいつでも屋根を開けたいくらい。後ろからエンジンの音が聞こえてくるのもいいよね。話したことなかったっけ、バイクの後ろに乗せてもらうのが好きだって。S660の広くない室内だって、なんだかバイクに二人乗りしているような密着感でしょ。」
ボクはバイクの免許を持っていないけど……まあいいか。バイクの話は聞かなかったことにしよう。<つづく>
(文:工藤貴宏/モデル:水瀬琴音/ヘア&メイク:東なつみ/写真:ダン・アオキ)