目次
●ピエヒ博士/教授の追悼 その1
clicccarの連載【F2P】コラム(F=フォーワード/前進、2=トゥ、P=パスト/往時)、たいへんご無沙汰してしまいました。今年の後半は、人生の終活としてお話の会を3回開催させていただきましたが、少なくなった灰色細胞ではそれが精一杯でした。
カムバック後の第1回が、急逝されたフェルディナント・ピエヒ博士/教授、元フォルクスワーゲン・グループ会長の思い出になるとは複雑な気持ちです。私、ピエヒ博士/教授より高齢なのです。
博士/教授の称号について説明してくれた他メーカーのドイツ人博士/教授によりますと、“博士”は学績・論文に対して授与され、“教授”は学生に教える資格だそうです。ポルシェ創立者で、ピエヒ元会長の祖父フェルディナント・ポルシェをはじめ、ポルシェ、ピエヒ家の男性複数が“フェルディナント”名です。ここでは敬称、学位は略させていただき、通称を使うことにします。
●ポルシェ時代のピエヒの活躍
私が直接ピエヒと一問一答を交わしたのは、アウディ時代に来日された際の一度だけです。フォルクスワーゲン最高幹部になられますと、個別インタビューは至難です。現フォルクスワーゲン・グループのヘルベルト・ディースCEO会長とのんびり新型車のお話ができたのは彼のBMW時代でした。そのBMWのハラルド・クルーガーCEOとは、ミニ、ロールス・ロイス、モーターサイクル担当役員の時に会い、次の逢瀬は生産担当役員時代でカーボンファイバーとアルミの話をしました。
ピエヒとは、フォルクスワーゲン・グループ会長時代のモーターショーやフォルクスワーゲン・イベントなどで、はるか彼方で多くのVIP、側近に囲まれた姿か、実況画面上でしかなかなか会えませんでした。
ポルシェ時代の彼については、終生911を愛し、レーシング・ポルシェを駆った畏友ポール・フレール(名作『ポルシェ911ストーリー』の著者)から聞いたエピソードを記します。
フェリー・ポルシェ社長指揮下の911開発初期には、リーダーのヘルムート・ボットがジャジャ馬的で慨嘆した操安性に苦労したようです。それを名車に調教したのが大学院新卒入社、29歳のフェルディナンド・ピエヒでした(もっとも、発売時にはフロントバンパー内に“補強材”なるバランスウエイトを仕込んだとか)。
●ポルシェ・レーシング指揮者として
ピエヒが大活躍したのがポルシェ・レーシング・ディレクタ―時代でしょう。
従兄弟でデザイナーのブッツィによる作品904は、流麗なデザインとほどほどの成績で、市販カーとしては大人気(110台生産)。1964年、鈴鹿の第2回日本GPでの式場壮吉904と生沢徹/スカイラインGT(4ドアセダン!)の激闘は語り草になりました。
ただ、904は鋼管ハシゴ形フレーム、FRPボディのかなり重いクルマでした。ピエヒの率いるレーシング部門の906からポルシェの猛攻がはじまります。グループ4規定により50台を製作、販売します。プロトタイプとして出場した1966年のルマン24時間では、巨龍フォードGT40 Mk 2(7リッター)の1-2-3に次ぐ4-5-6フィニッシュを遂げています。
巨龍といえば、ポルシェ917です。世界モータースポーツの元締FIA.CSIが新規定として最少生産台数25台を決めました。無理難題なのですが、ポルシェは瞬く間に義務台数を製作。シュトゥットガルトにCSIの役員を招き、25頭の白い巨龍を見せました。ピエヒは、役員に向かい、「どのクルマでも結構ですから、走られますか」と勧めたとか。どなたも乗らなかったそうです。
(文:山口京一)