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■「最強」の呼び声に偽りなかった1988年式ホンダNSR250R
何年経っても記憶から消えることなく、連綿と語り継がれていくバイクがある。人はそれを、名車と呼ぶ。これまで数々の名車とともにライダー人生を歩んできた後藤 武が、自身の体験とともに当時の名車の姿を振り返る。今回の主役はNSR250Rだ。
NSR250Rが登場したのは1986年のことだった。
それまでTZR250の天下だったところにホンダが送り込んできた刺客。ただ、初期のモデル、型色名MC16はポテンシャル的にTZR250を大きく超えたという感じではなく、互角に戦うことができるバイクが出たというようなイメージ。そんな情勢が変わったのは88年モデルのMC18が登場した時だった。
無敵を誇った88
このバイクの登場で、レプリカの勢力図はガラリと変化した。何しろエンジンのパワーが強烈。当時は自主規制で最高出力が45psになっていたが、88はイグナイターの配線を引っこ抜くだけで50psオーバー(ウチのマシンの実測で53ps)。この時点で他を圧倒して速かったのだけれど、一番の強みはPGMシステムの採用などで中速トルクが大幅にアップしたこと。スロットルを開けたら、それこそどの回転域からでもドカンと飛び出して行く。ライバル達はこのパワーとトルクに歯が立たなかった。
80年代のプロダクションレースやF3ではホンダのV4が猛威を振るっていて、ホンダVの波がいよいよ250クラスにも押し寄せてきたかと思った。低回転からトルクが太い台形カーブは、89あたりから顕著になったのだけれど、ヤマハやスズキのマシンに乗っている連中が、NSRの中速トルクにはかなわないと思いしらされたのは、正しくはこの88からだった。
乗りにくさも天下一品
その代わり、ハンドリングには猛烈な癖があった。進入で減速してしまうと曲がらないのである。スピードを乗せたまま一気にバンクさせ、タイヤを強引に路面に押し付けるようにしないと思うように曲がってくれない。
この乗りにくさには、当時登場したばかりのラジアルタイヤも関係していた。タイヤの限界も高く、スポーツバイクの新しい可能性を追求して出来上がったタイヤだったが、この当時はまだ未完成。それまでのバイアスに比べてフィーリングが大きく変わってしまった。タイヤと車体の相乗効果によって、更に乗りこなすのが難しいバイクになってしまったのである。
サーキットでは、ライダー達がそれぞれ自分の乗り方に応じて足回りのセッティングをするものだ。ところがNSRの方向性は一つだけ。フロントをできるだけ下げてリアはめいっぱい上げる。そうやって、少しでも旋回性重視の方向にして、硬くて曲がらない車体を補うのである。
こんな極端な性格だったからNSRを乗りこなせないライダーも続出した。中にはそれでレースを辞めてしまったライダーもいたくらい。当時、市販車改造のプロダクションレースSP2クラスに出ていたオレも、この特性に苦しめられた。
この傾向はヤマハのマシンから乗り換えたライダーに顕著に現れた。どんな時でも素直で乗りやすいヤマハのハンドリングに慣れたライダーには、あまりに過激で扱いにくかった。そんなぶっ飛んだマシンだったのである。
NSRでないと勝てない
88がデビューしてすぐ、サーキットではNSRでないと勝てないという話が一気に広がった。筑波でも多い時は予選だけで600台近く集まる時もあって、決勝に残るのは32台だけ。その中の9割くらいがNSRだった。ヤマハやスズキで走っていたチームもたまらずホンダに鞍替えするということが相次いだ。何しろSP忠男レーシングチームがNSRで走り出したくらい。忠さんに当時の話を聞くと「だってヤマハに金もらってたわけじゃないし、NSRじゃなきゃ勝てないんだから仕方ない」と言って笑っていた。
それも当然。何しろ当時のレースは、力と才能がぶつかり合って、日々ものすごい勢いで進んでいたから、トップグループにいなければライダーもチームも置いていかれてしまう。
たかがノービスライダーのプロダクションレースでも販売に与える影響力は強大で、ショップやメーカーもプロダクションレースに相当力を入れていた。レース結果でバイクの売れきやチャンバーなどのパーツの売れ行きが決まるくらいだった。何しろチャンバーを作っていたショップは、年間の売り上げが億になる。どのメーカーもNSR用のパーツを開発するのに必死だった。
写真は当時チームメイトだった後輩の88NSRで筑波サーキットのバトラックス耐久に出場した時のもの。
レースの3ヶ月前からNSRに乗り始めて、それまでのバイクとあまりに違い過ぎて面食らったことを覚えている。「突っ込めるだけ突っ込んで、フロントに荷重をのせたまま一気にバンクさせろ」などと散々言われたけれど、それまで身についた走り方を簡単に変えることもできず、納得するタイムを出すことができなかった。
「自分にはバイクとレースしかない」そう決めていた当時の自分にとって、88を乗りこなすことができなかったという事実は受け入れがたいものがあった。失恋などよりも苦い、当時の思い出である。
(後藤 武)