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2019年は何の年か知っていますか? それは、1969年生まれの初代フェアレディZ(S30)誕生50周年のお祝いイヤーです!
フェアレディZといえば1981年のOPT創刊以降、最高速やゼロヨンなど記録狙いのベース車として、様々なチューナーの手により仕上げられたチューンドZが誌面を飾ってきました。最高速テストドライバー兼OPTの裏ボス・Dai稲田がZフリークだったこともあり、OPTのワークスカーとして色々な企画にZは登場していました。
そんな歴代OPT-Zの中、1984〜1985年にかけてDaiのプライベートカーだったZ31を実験台に「Dai-Z、レースに挑戦!」シリーズが誌面を賑やかせていたのは【Play Back the OPTION】でもたっぷり公開していますので、ソレを見ていただくとして・・・(あ、まだ未完です)。
今回お届けする【Play Back the OPTION】は、「OPT300ZXの大先輩たち、輝かしいフェアレディのレース模様をプレイバック! その6【OPTION 1984年11月号より】」の【Spin off】として、「その後のフェアレディZはレースで活躍したのか?」な〜んてのをお届けいたします。
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【S130までは華々しいレース模様】
この記事では、歴代のフェアレディZは国内外のレースで大活躍していた、ということをお伝えしました。が、Z31になると、なぜか日本の(サーキット)レース界での活躍は、ほぼ皆無(全日本ラリー選手権では、神岡政夫選手の300ZXターボ[Z31]がシリーズチャンピオンを獲得しました)。
アメリカではIMSA等でも活躍したZ31なのに、なぜ日本のサーキットにはZが帰ってきてくれないのか・・・?
【オレたちがZをサーキットに復活させる!】
そんな現状に危機感を抱いたOPTのDai稲田。自ら音頭を取り、HKS、東名自動車、NISMO、ヨコハマタイヤなどを巻き込んで、無謀にも1985年の世界耐久選手権に参戦したのです! その最大の理由は、日本が誇るスーパースポーツカー「フェアレディZ」を日本のレース界に復活させる!ということでした(プラス、チューニングパワーがどこまでレースで戦えるか?の挑戦も含めてね)。
が、専用パーツが何もないZ31でレース仕様を製作するのは、そりゃも〜大変なことで…(※これも涙涙のclicccarバックナンバー参照)。
私なりに調べた結果、Z31の(サーキットでの)レース活動は…1985年のJAF国内競技リザルトの中によれば、「ゲインズ・オプション・300ZX」=OPT・Dai-Zが、3戦中完走1回、リタイア2回の3戦のみの戦績…しか残っていません。Z31の時代には、OPTが必死にサーキットへの復活をアピールしても、願いは叶いませんでした。