東京オートサロンの原点は「おしん」「東京ディズニーランド」と同じ年の「第1回東京エキサイティングカーショー」

1月13〜15日幕張メッセにて開催された東京オートサロン2017の余韻に浸っている今、この偉大なるチューニングカーの祭典、その第1回目はどんな感じだったのか?を見てみましょう。

ちなみに1983年という年は、テレビでは「おしん」が放送され、千葉に「東京ディズニーランド」が開園した年でした。

チューニング&ドレスアップカーの究極が、一堂に大集結!

名称は、オートサロンではなく「東京エキサイティングカーショー」。1983年1月7〜9日の3日間、場所は東京・晴海の東京国際貿易センター東館。総入場者数は10万2788人。今年2017年の総入場者数は32万4400人。人の数としては約3分の1。が、しかし、1回目で、しかも会場は晴海の1館だけで10万人オーバーっていうのは、ちょっと凄いんではないでしょうか!

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発起人は、OPTION誌を創刊させた、稲田大二郎、通称:Dai。「改造を文化に、もっとチューニングの世界を広げよう!」の一言からスタート。合法チューニング、合法パーツなど皆無で、すべてが違法とされていた時代。ようやく60タイヤやアルミホイールが解禁された、そんな時代です。

この時、OPTION誌創刊から3年目。誌面を飾るチューニングカーを初めて目の当たりにできる絶好のチャンス。今のように、全国でチューニングカーのショーなど行われていない時代だから、全国からチューニングカーフリークが集まったってこと。

当時、OPTIONの世界が暴走族とは別物の「改造車/走り屋」であることは理解されず、新聞やテレビからの批判をバンバン浴びていた時代に、ここまで盛大なショーを開催できたということは、チューニング会にひと筋の光りを与えてくれた(んではないだろうか?)。

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出展社は、当時のOPTION誌面を飾っていたチューニングカーやレーシングカーばかり。今のオートサロンでハバをきかせているトヨタ、日産、ホンダなどの自動車メーカー系は皆無。「チューニングカーには近づくな、触るな危険!」なんてお達しが出ていたとか? ホントはみんな、好きなクセにね!!

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キャンギャルもかなり当時っぽいですね。

会場内を埋め尽くす・・・といっても、写真を見る限り今のオートサロンに比べたら通路面積に余裕がある感じ。チューンド1Gセリカや、SAセブン13BドラッグRX-7、チューンド・ランチアデルタ・モンテカルロ・ターボに、ソアラ、Z、スカイライン、コルベット・・・。ドラッグやストリートで名を馳せる「憧れ」で「禁断」のチューンドマシンに、みんなの目が輝いていました。

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大会名誉会長でもあった作家、大藪春彦さんからは、「ボクの想像していた以上に、各マシンの仕上がりは素晴らしい。正直いってビックリしたよ。でも、暴走族とは違うこういったクルマの楽しみ方は、今後も大事にしていきたいね」とのコメントも頂いている。

1987年の第5回から「東京オートサロン」と名称変更をし、今年2017年で第35回を迎えたチューニングカーの祭典は、今後どんな流れを歩んでいくのか? 電気自動車の電圧アップチューンなんか登場しているかも? また、世界選手権に発展していく究極のD1マシンもお披露目されるでしょう。

2018年の「東京オートサロン」に、早くも期待が高まっていきませんか!?

[1983年3月号より]

(Play Back The OPTION by 永光やすの)

 

この記事の著者

永光やすの 近影

永光やすの

「ジェミニZZ/Rに乗る女」としてOPTION誌取材を受けたのをきっかけに、1987年より10年ほど編集部に在籍、Dai稲田の世話役となる。1992年式BNR32 GT-Rを購入後、「OPT女帝やすのGT-R日記」と題しステップアップ~ゴマメも含めレポート。
Rのローン終了後、フリーライターに転向。AMKREAD DRAGオフィシャルレポートや、頭文字D・湾岸MidNight・ナニワトモアレ等、講談社系車漫画のガイドブックを執筆。clicccarでは1981年から続くOPTION誌バックナンバーを紹介する「PlayBack the OPTION」、清水和夫・大井貴之・井出有治さんのアシスト等を担当。
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