真正ボンドカーで、もっとも悲劇的なのが『女王陛下の秘密機関』に登場するランチア・フラミニア・ザガート・スパイダーです。
ジェイムズ・ボンドは、帰国の途、3年乗ったベントレー・Rタイプ・シャシー、特装オープンボデイ車で、フランスの国道N1の退屈な直線コースを「80から90」で、彼のようなエクスパート・ドライバーの本能として持つ「オートパイロット」(最近の電脳型の名称のはるか以前です)に任せて流していました(イギリス人ですので、数字はマイル/時ですよね)。
ボンドの頭の中には、この本のタイトルとなっている「女王陛下の秘密機関」の長である上司「M」に宛てる辞表文案が走っています。そこに、3連エアホーンのけたたましい高音。白いランチア・フラミニア・ザガート・スパイダーがスパーッと抜き、ベントレーの鼻先をかすめとんでいきます。彼女のピンクのスカーフが風で横直線を描いています。ボンドの最初、そして唯一の結婚相手との運命的遭遇でした。
ここで真正ホンドの容貌、まあ、いちばん近いのがショーン・コネリーと思いますが、イアン・フレミングは作曲家、ピアニスト・シンガーのホーギー・カーマイケルをイメージしています。ボンドを銃撃戦以外でもっとも動かすのは美女のクルマに追い越されるということ。追撃にでます。なかなか追いつかず、彼、スーパーチャージャー作動の電動スイッチを入れますが、振り切られます。パワーというより、むしろリジッドアクスル、板バネのリアサスでは、コーナーで横っ飛びし、抑えるのが精一杯なのです。
『女王陛下の秘密機関』は、1963年の作品ですから、フラミニア・ザガートは、「スポート」2シーターでしょう。ちなみに、翌64年にはより強力な「スーパースポート」が登場します。エンジンは世界最初の生産型V6で、排気量2.8L、スリーバレル気化器1基で、150psを発生します。フロントエンジンですが、リアトランスアクスルを用いています。フロントはダブルウイッシュボーン、リアはドディオンアクスルで、理想に近い重量配分を実現しています。
さて、ザガート・“スパイダー”なるボデイタイプは、どこを検索しても見つかりませんでした。私、60年代後半、ミラノ郊外のザガート社を取材し、創設者ウーゴ・ザガート(1968年没)と後継者となるエミリオと会いました。「スパイダーを特製されましたか」の問いにお二人から返ってきたのは微笑でした。
ボンドの妻となるトレーシィは、仏コルシカ島を本拠とする、伊シシリー島マフィアに匹敵する集団首領の娘で伯爵と結婚するが、夫はマゼラティ単独事故で死去、彼女はコウンテス(イタリア語でコンテッサ、日野の乗用車名を憶えている方いるでしょう)称号を継承します。
作品の最終、ボンドとトレーシィは新婚旅行に出発します。ボンドは、トレーシィの運転するフラミニアをオープンにします。「クローズにしたら世界が半分しか見えないよ。」オープンカーでデートに誘ういい台詞でしょう?(使う歳でないのが残念です)。ボンドは、追従する真紅のマゼラティ・クーペ車内にリネンのヘルメット、マスクを着けた男性ドライバーと女性パッセンジャーを見ます。
アウトバーンを130km/hで流すランチア、運転するトレーシィが「赤いのが近づいてくるけど、振り切る?」、ボンド、「いいよ、抜かさせたら。時間は十分ある。」いつもは、クルマに乗ったら先頭を走るふたりには、稀なリラックスした瞬間でした。8気筒の轟音 (5000GTになります)とともに、自動小銃のスタカット。トレーシーが即死、ランチアはクラッシュし、ボンドは負傷、失神します。
そう、なぜマゼラティと記すか説明します。マセラティ・ジャパンの発表会、イタリア人前々社長がそう発音したので、質問しましたが、「 『マゼラティ』が正しいのです。でも、日本では車名、社名ともに『セ』となってるんです。」