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■日本で初めて開催されたバイクの世界選手権
1963(昭和38)年11月10日、前年にオープンした鈴鹿サーキットで「第1回日本GPロードレース」が開催されました。
これが、ロードレース世界選手権の最終戦であり年間チャンピオンが決まる重要なレースということもあり、空前の盛り上がりを見せました。
●鈴鹿サーキットの誕生と第1回全日本ロードレースの開催
1962年9月に本田宗一郎氏の『欧州に負けない本格的なサーキットが必要だ』という強い意志によって、日本で初めての国際レーシングコースである鈴鹿サーキットが完成。その除幕イベントとして、直後の11月3日、4日に「第1回全日本ロードレース」が開催されました。
当時、ホンダを中心にスズキ、ヤマハ発動機の日本メーカーが世界GPを席巻していたこともあり、世界レベルのバイクレースを一目見ようと、2日間合計で27万人もの大観衆が詰めかけました。鈴鹿サーキットへ向かう車の渋滞が名古屋から続いた(?)というエピソードが残っています。
このレースでは、国内ライダーのノービスと国際級と海外ライダーのセニアの2クラスに分けられて激戦が繰り広げられ、セニアクラスの優勝(ドライバー)は、50cc:ホンダ(T.ロブ)、125cc:ホンダ(T.ロブ)、250cc:ホンダ(J.レッドマン)、350cc:ホンダ(J.レッドマン)と、ホンダが全クラスを制覇。ノービスクラスの優勝は、50cc:ホンダ(黒沢元治)、125cc:ホンダ(黒沢元治)、250cc:ヤマハ(三橋実)、350cc:ヤマハ(片山義美)でした。
●激戦となった第1回日本GPロードレース開催
第1回全日本ロードレースの翌1963年のこの日、鈴鹿サーキットで「第1回日本GPロードレース」が開催されました。
このイベントは同時にロードレース世界選手権の最終戦(12戦目)であり、年間チャンピオンが決まる重要なレースでした。
1962年シーズンで125cc/250cc/350ccの3クラスを制覇していたホンダは1963年の活動を縮小し、62型ベースのマシンと市販レーサーCRで世界GPを戦いました。
この結果、レベルアップしたスズキとヤマハ、海外メーカーの追い上げに遭い、シーズンは大激戦となりました。実際に、1963年シリーズチャンピオンは125ccがH.アンダーソン/スズキに決まり、350ccがJ.レッドマン/ホンダに決定していた以外は、この最終戦の鈴鹿で雌雄を決することになり、熾烈な戦いとなったのです。
●0.1秒差で決着がついた250ccクラスレース
レースのなかでも、250ccクラスは今も語り継がれている有名なレースとなりました。
ホンダRC164(空冷4ストローク4気筒DOHC)のJ.レッドマン選手と、ヤマハ(空冷2ストローク2気筒)の伊藤史朗選手、F.リード選手の3選手による抜きつ抜かれつのデッドヒートが最後の最後まで続き、鈴鹿のスタンドは総立ちになって熱狂したそうです。
最後は、J.レッドマン選手が伊藤史朗選手を0.1秒のわずか数mの僅差で優勝を飾りました。
鈴鹿サーキットがまだ無かった頃、日本でのレースは浅間高原のコースを発祥の地として、浅間火山レースとして開催されていました。浅間の英雄、天才ライダーと言われた伊藤史朗選手が、世界を相手に惜しくも涙をのんだ戦いでした。
1959年にホンダが日本メーカーとして初めてロードレース世界選手権に参戦し、1960年にスズキ、1961年にはヤマハが参戦。1960年代は、ホンダを中心に日本メーカーが世界選手権を圧倒的な強さで席巻し、日本のバイクが世界一であることを証明した時代だったのです。
毎日が何かの記念日。今日がなにかの記念日になるかもしれません。
(Mr.ソラン)