日産「セドリック」はトヨペットクラウンから遅れること5年、どのようにして誕生したのか【歴史に残る車と技術009】

■日産が初めて独自開発した高級乗用車セドリック

1961年デビューしたセドリック・デラックスのサイドビュー
1961年デビューしたセドリック・デラックスのサイドビュー

1960(昭和35)年4月1日、1955年に登場した日本初の純国産車「トヨペットクラウン」に対抗するため、日産自動車の「セドリック」がデビューしました。

戦後まもなく、英国オースチン社のノックダウン生産を行っていた日産自動車が、戦後初めて独自開発した高級乗用車です。


●ダットサンが日産自動車のルーツ

日産の歴史を辿ると、1911年に創立され、小型乗用車「DAT自動車(脱兎号)」を生産した「快進社」まで遡ります。DATは、資金支援者の田(D)と青山(A)、竹内(T)の3氏のイニシャルを取ったものです。

その後、ダット自動車商会と車名を変え、大阪の実用自動車製造と合併してダット自動車製造となって、「DATSON(後に、DATSUN)」という車名の乗用車を開発。そして、このダット自動車製造を、鮎川義介が設立した戸畑鋳物が1933年に吸収合併して、自動車製造株式会社となり、その翌1934年に社名を変更して日産自動車が誕生しました。

日産自動車ができる前に、すでにDATSUNという車が存在し、ダットサンはブランドと同時にトレードマーク(商標)でもあり、車名の冠としても長く使われました。初期の日産の車には、「ダットサン・サニー」や「ダットサン・ブルーバード」のように、車名の前にダットサンというブランド名が付いていたのは、このためです。

●戦後、英国オースチン社のノックダウン生産を開始

第二次世界大戦後、日本はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から乗用車の生産を禁止され、乗用車の生産が全面的に解除されたのは、1949年10月でした。この間は、日本の自動車開発にとっては大きなブランクでしたが、政府は海外メーカーとの技術提携によって、生産技術や開発技術を吸収することを奨励しました。

オースチン A50 ケンブリッジ
オースチン A50 ケンブリッジ

日産は、1952年に英国のオースチン社と技術提携し、中型乗用車「オースチンA40サマーセット(その後モデルチェンジしてオースチンA50ケンブリッジ)」の部品を輸入して、ノックダウン生産を始めます。その後、A50ケンブリッジ用部品の国産化が徐々にできるようになり、1956年には全部品が日本製となりました。

オースチンA50ケンブリッジは、先進的なスタイル、頑強なユニタリーボディ構造、50PSを発揮する1.5L直4 OHVエンジン、円滑なクラッチ、ハイポイドベベルギアの採用による安定した走行と快適な乗り心地を実現した、当時としては先進的な乗用車でした。

その後、多くの技術やノウハウを日産にもたらしたA50ケンブリッジは、1960年のセドリックデビューとともに生産を終了しました。

●個性的な縦目4灯ヘッドライトをもつ重厚な高級セダンのセドリック誕生

1955年に誕生した初代クラウン(トヨペットクラウン)。日本初の純国産車
1955年に誕生した初代クラウン(トヨペットクラウン)。日本初の純国産車

セドリックは、1955年に登場したトヨペットクラウンに対抗するために、日産が初めて独自開発した6人乗りの高級セダンです。

縦目4灯のフロントマスクと、Aピラーを前傾させたパノラミックウインドウ、メッキパーツを多用するなど、アメ車風のスタイリングが特徴でした。モノコックボディで車重を1195kgに抑えながら剛性を高め、さらに足回りはフロントがダブルウイッシュボーン/コイル、リアは3枚リーフ/リジッドサスペンションを設定して、高級車らしい乗り心地を実現しました。

セドリックの主要諸元
セドリックの主要諸元

パワートレインは、71PSを発揮する1.5L直4 OHVエンジンと、4速MTの組み合わせ。ハイグレードのデラックスには、ヒーター、ラジオ、時計などが標準装備され、車両価格は101.5万円と、初代クラウンと同額に設定されました。当時の大卒初任給は1.3万円程度(現在は約23万円)なので、単純計算で現在の価値では1800万円の高級車です。

1963年に登場した「セドリック・スペシャル」。ボディを拡大し、2.8L直6エンジンを搭載。
1963年に登場した「セドリック・スペシャル」。ボディを拡大し、2.8L直6エンジンを搭載

さらに、1963年2月には115PSを発揮する2.8L直6 OHVエンジンを搭載し、ボディも拡大した「セドリック・スペシャル」を加え、ヘッドライトも横置き4灯に変更するなど、バリエーションの拡充とグレードアップを図り、クラウンと日本の高級車市場を2分する高級車への道を歩み始めました。


●セドリックが誕生した1960年は、どんな年

1960年には、国民車構想に呼応した東洋工業(現、マツダ)初の軽乗用車「R360クーペ」と、新三菱重工(三菱自動車の前身)初の独自開発した小型乗用車「三菱500」がデビューしました。

1960年にデビューした東洋工業(マツダ)のR360クーペ
1960年にデビューした東洋工業(マツダ)のR360クーペ

国民車構想は、1955年に政府が乗用車の開発を促進するために提唱したもので、規定(定員4人、排気量350~500ccで最高時速100km/h以上と、車速60km/hの燃費30km/Lを達成し、販売価格25万円以下)の条件を満たした場合に、国がその製造と販売を支援するという内容です。

結局、国民車構想は自工会が達成不可能と表明するなどして、国民車構想そのものは不発に終わりましたが、日本の自動車技術を急速に進化させて、モータリゼーションの火付け役として役割は大きかったと評価されています。

1960年にデビューした三菱初の乗用車である三菱500
1960年にデビューした三菱初の乗用車である三菱500

その他、世界初となるソニーから「トランジスターテレビ」が発売されてカラーテレビの放送が開始、白黒TVは5万円(14型)で普及率は45%、カラーTVは42万円(17型)でした。また、ビール大瓶125円、コーヒー一杯60円、ラーメン45円、カレー110円、吉野家牛丼120円、アンパン12円の時代でした。


40年以上もクラウンとともに、日本の高級車市場を席巻することになる、日産が初めて独自開発した高級セダンのセドリック。日本の歴史に残る車であることに、間違いありません。

Mr.ソラン

この記事の著者

Mr. ソラン 近影

Mr. ソラン

某自動車メーカーで30年以上、自動車の研究開発に携わってきた経験を持ち、古い技術から最新の技術までをやさしく解説することをモットーに執筆中。もともとはエンジン屋で、失敗や挫折を繰り返しながら、さまざまなエンジンの開発にチャレンジしてきました。
EVや燃料電池の開発が加速する一方で、内燃機関の熱効率はどこまで上げられるのか、まだまだ頑張れるはず、と考えて日々精進しています。夢は、好きな車で、大好きなワンコと一緒に、日本中の世界遺産を見て回ることです。
続きを見る
閉じる