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■ファミリアバンで始まり4年で累計生産40万台達成
1967(昭和42)年9月11日、東洋工業(現、マツダ)のファミリアシーズが、発売から僅か4年で累計生産40万台を記録しました。
東洋工業は、1963年10月に「ファミリアバン」、翌1964年に「ファミリアセダン」を投入して小型乗用車市場に参入、ファミリアシリーズは大ヒットを記録していったのです。
●モータリゼーションとともにマツダも乗用車市場に参入
1955年に政府が提唱した「国民車構想」に刺激され、自動車メーカーから乗用車の新型モデルが続々と登場し、日本のモータリゼーションが幕を開けました。
総合自動車メーカーを目指していた東洋工業は、1960年に乗用車市場への進出を図るトップバッターとして「R360クーペ」を発売。R360クーペは、スポーティで洗練されたスタイルと、30万円という低価格と相まって、翌年には販売数2万3417台を記録した大ヒットになります。
R360クーペの成功によって乗用車市場に進出した東洋工業は、第2弾として1962年に軽乗用車「キャロル」を発売。R360クーペが基本的には2人乗りであったのに対し、キャロルは大人4人が乗れる大衆車として人気を集めました。
●メーカー再編成構想で小型乗用車にも着手
国民車構想に続いて、政府は計画されていた乗用車の輸入自由化を控えて、1961年に「乗用車メーカー再編成(3グループ)構想」を発表しました。
これは、国産乗用車の競争力を強化するため、乗用車メーカーを“量産車グループ”と“スポーツカー/高級車グループ”、“軽乗用車グループ”の3つのグループに分けるというものです。
この乗用車再編成が実施されれば、東洋工業は軽乗用車グループに分けられ、目指す総合自動車メーカーの夢が絶たれる可能性があること、また昭和30年代中盤には、日本市場が軽乗用車から小型乗用車に移行していたという2つの理由から、東洋工業は小型乗用車の開発を急ぎました。
しかし、実際には乗用車メーカー再編成構想は、独立独歩を希望する乗用車メーカーの反対によって実現することはありませんでした。
●ファミリアシリーズで小型車市場へ進出
東洋工業が投入した小型乗用車の第1弾は、当時高級ライトバンの需要が高いという判断から、1963年発売の「ファミリアバン」でした。ファミリアバンは、最高出力42PSを発揮するアルミ合金製782ccの直4 OHV水冷エンジンを搭載し、最高速度は105km/h、最大積載量400kgと実用性の高い商用車でした。
翌1964年、本格的なファミリーカーとして「ファミリアセダン」がデビュー。ファミリアバンのエンジンを改良した最高出力45PSのエンジンを搭載して、最高速度は115km/hと、大衆車としては世界レベルの動力性能を誇りました。デビュー時は4ドア5人乗りでしたが、翌年には2ドアタイプ「ファミリア2ドアセダン」を追加設定。ファミリア800デラックスの車両価格は、54.8万円、ちなみに当時の大卒の初任給は、2.9万円(現在は約23万円)程度でした。
1965年の月販台数は、シリーズで1万台を超える人気を獲得し、その後1965年「ファミリアクーペ」、1967年「ファミリア1000」を投入し、1967年のこの日、累計生産台数40万台を達成したのです。
ファミリアは、2003年に「アクセラ」、2019年に「MAZDA3」と引き継がれ、現在もマツダの基幹モデルとして人気を博しています。昭和の人には、ファミリアと言えば1980年に登場した“真っ赤なファミリア”の5代目が思い出されますが、そもそも初代ファミリアも大ヒットモデルだったのです。
毎日が何かの記念日。今日がなにかの記念日になるかもしれません。
(Mr.ソラン)