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■日本のモータリゼーションの火付け役となったスバル360
1958(昭和33)年3月3日、富士重工業(現、スバル)から政府の乗用車普及策“国民車構想”に呼応した「スバル360」が発売されました。“てんとう虫”と呼ばれたキュートなスタイルと最新技術を搭載したスバル360は大ヒット、10年にわたり販売トップの座に君臨したのです。
●富士重工の起源は、戦闘機を製造していた中島飛行機
富士重工の起源は、元海軍機関大尉の中島知久平(なかじま ちくへい)氏が創立した「飛行機研究所」です。飛行機研究所は1919年に「中島飛行機製作所」となり、戦闘機とそのエンジンを作っていました。
第二次世界大戦で活躍したゼロ戦を設計したのは、アニメ映画「風立ちぬ」のモデルとなった三菱重工の堀越二郎氏ですが、搭載された栄エンジンや誉エンジンを作ったのは、中島飛行機であり、設計を担当したのは中川良一氏と、海軍技術大尉の百瀬晋六氏らのメンバーでした。
中川氏は、富士精密(後のプリンス自動車)時代を経て、プリンス自動車の設計部長となり、1957年にデビューした初代「プリンス・スカイライン」の開発指揮を執った人物です。
●富士重工の技術を牽引した中島飛行機出身の百瀬晋六
中島飛行機は、終戦とともに飛行機の生産を停止し、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指示により15社に分割されました。一旦分割されたものの、1950年にその中枢が富士産業として再出発し、さらに1953年に航空機と新たな自動車開発のため、富士重工が設立されたのです。
中島飛行機で、中川氏と共にゼロ戦エンジンなどの設計に携わっていた技術大尉の百瀬氏は、戦後、富士重工でスバル360などを世に送り出し、初期の富士重工業の技術をけん引しました。
百瀬氏は、スバル360をはじめ多くの車の開発に携わりましたが、最初に手がけたのは「ふじ号」です。ボンネットバスが主流の時代に、国産初のモノコックボディのバスで、エンジンをリアに搭載することによって、客室のスペース効率を上げたのが特徴です。1966年にデビューした小型車「スバル1000」では、スバルのコア技術である水平対向エンジンや、“ダブルオフセットジョイント”のFF機構、4輪独立懸架などを開発しました。
●キュートなスタイリングに最新技術満載のスバル360
国民車構想に呼応する形でデビューしたスバル360は、フルモノコックボディやRR(リアエンジン・リアドライブ)レイアウトなど大胆な設計思想で、軽自動車として初めて4人乗車を実現しました。
最高出力16PSを発揮する356ccの空冷2気筒エンジンをリアに横置きし、最高速度は83km/h。一般的な車が500kg程度ある車重を385kgまで軽量化するなど、随所に航空機づくりで培った高い技術が盛り込まれました。
また実用性の高さに加えて、キュートなスタイルから“てんとう虫”の愛称で親しまれて大ヒット。デビューから10年間にわたり販売トップの座に君臨、長く人々に愛され続けました。キュートなボディは、軽量化のためにボディパネルを薄くして、その薄さで強度を確保するために平面を極力少なくするという、技術的な狙いから生まれたのでした。
車両価格は42.5万円、当時の大卒初任給は1.3万円程度なので、単純計算では現在の価値では約750万円となります。簡単に買える金額でありませんが、それでも多くの国民にマイカーを持つ夢を与えるという大きな功績を残したのです。
●スバル360が目指した国民車構想
スバル360がデビューする3年前の1955年5月、通産省から乗用車の開発を促進するための「国民車構想(国民車育成要網案)」が発表されました。国民車構想とは、下記の要件を満たす自動車の開発に成功すれば、国がその製造と販売を支援するという内容です。
・定員4人、排気量350cc~500cc
・最高速度100km/h以上、車速60km/hでの燃費30km/L
・販売価格25万円以下など
スバル360に続いて、国民車構想に呼応して1960年に三菱重工(現、三菱自動車)「三菱500」、1961年に東洋工業(現、マツダ)「R360クーペ」、トヨタ「パブリカ」などが登場しました。
しかし、実際には目標が高すぎて自工会が達成不可能と表明するなどして実現できず、国民車構想そのものは不発に終わりました。しかし、乗用車の国産化技術の発展に、大きく貢献したと評価されています。
スバル360は、その国民車構想の要件をほぼ満足した歴史的な乗用車だったのです。
●スバル360が誕生した1958年には、ホンダ「スーパーカブ」も登場
この年の8月には、ホンダの世界的な超ロングセラー「スーパーカブC100」が発売されました。スーパーカブシリーズは、2017年10月に前人未到の世界累計生産台数1億台を達成、現在も記録更新中です。
1948年に本田宗一郎氏が創立したホンダは、自転車搭載用エンジンの製造から2輪車事業に進出、1949年には本格的な2輪車「ドリームD型」を生産し、その後スーパーカブC100の発売に至ったのです。これら2輪車の成功を基盤として、1963年に「T360」トラックで4輪車事業に参入し、その後「シビック」の世界的な大ヒットによって、2輪と4輪の両方で世界のホンダブランドを築き上げました。
また12月には、東京タワーが竣工。映画『Always 三丁目の夕日』で、この頃の港区の周りにはほとんど高い建物はなく、街を走るオート3輪や路面電車が走る様子、テレビを見に集まる近所の人々など、当時の庶民の生活ぶりが描写されていました。
ちなみに、当時のガソリン価格は38円/L、日清チキンラーメンが35円、日本初の缶ビール(アサヒ)が75円、吉野家(吉野家の創業は1899年)の牛丼は120円でした。
日本初の国民車で日本のモータリゼーションの火付け役になったスバル360、日本の歴史に残る車であることに、間違いありません。
(Mr.ソラン)