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■ゴルフなど数々の名車を生んだ天才デザイナー、ジウジアーロ
イタリア車とイタリアを心底愛するエンスージアスト・越湖信一さんが今回迫るのは、デザイン界のマエストロ(巨匠)、ジョルジェット・ジウジアーロ。デザイナーとして、画家として、そしてビジネスパーソンとして類まれなる才能とスキルをもつジウジアーロと旧知の間柄である越湖さんに、「リアルな視点」で天才の功績を振り返ってもらいました。
●メーカートップを魔法にかけるプレゼン
前々回コラムの“生ジウジアーロの発音”ご披露は如何でしたか? あの記事を読んだいろいろな方から“ウチはこう読んでいる”なんていうメッセージを頂き、私もしばらく楽しめました(笑)。
さて、そのジウジアーロを今回は少し深掘りしてみましょう。ジョルジェット御大について語ろうとするなら本が1冊出来てしまいますが(実際、私は1冊書いています!)、天才的デザイナーであることはもちろん、画家としてのスゴさも付け加えておかなければなりません。
彼は、自分のアイデアをアタマの中で正確な三面図=立体造形として作りあげることができるという、コンピューターのような才能を持っていますが、それに加えて、エモーショナルたっぷりの絵画まで、まだ何も出来ていないうちに仕上げてしまうのです。
そもそも彼の信条は“フィージビリティ”。つまり、クルマのスタイリングを誇張して、スポーツカーなら低く、幅広く強調するプレゼンを良しとしません。彼の最初の絵が、そのままの形で市販モデルとなることがポリシーなのです。
一見すると、その三面図は地味に見えるかもしれませんが、次第に周囲も彼のやり方を理解してきました。完成車のイメージを的確に理解することができるプレゼンは、自動車メーカーにとってもありがたいことなのです。
その合理性に加えて、受け手の想像力を高めるために絵筆を握り、芸術的ともいえる絵画も仕上げることができるから鬼に金棒です。たとえば、マセラティ ギブリ(初代)のスケッチなど、エレガントでありながらも、力強く疾走する躍動感に溢れています。
このような二本立てのプレゼンをされた日には、自動車メーカーのトップも魔法にかけられたように契約書へサインしてしまうでしょう。
●イタルデザインはカロッツェリアじゃない
フィアット、カロッツェリア・ベルトーネ、そしてカロッツェリア・ギアと渡り歩いた彼は、誰もが認める世界最高のカーデザイナーの一人でした。しかし、彼は1960年代半ばに、すでにカロッツェリアというビジネスには未来はないと確信していました。
それまでのカロッツェリアは高価なワンオフカーを顧客の注文で作ったり、自動車メーカーの注文でスタイリング案を提案していました。つまり、自動車メーカーがエンジニアリング部分を作りあげ、そこに合ったボディのデザインを提案していたのです。
しかし、彼はこれからの自動車開発は、デザインとエンジニアリングが両輪となって進まなければ成り立たないことを予測していたのです。そして、今までカロッツェリアが受け持っていたボディ製造という仕事を、メーカーが内製化するだろうということも…。
そこでジョルジェットは、以前も当連載で書いた宮川秀之氏、そしてアルド・マントヴァーニと共に“Studi Italiani Realizzazione Prototipi”を設立しました。その社名を意訳するなら、「イタリア流試作工房」とでもいえましょうか。
要は、デザインとエンジニアリングの橋渡しをしながら、製造設備の設計を含め、新車開発のコーディネートを行いましょうということだったそうです(しかし、解りにくい名前だったので、まもなく“イタルデザイン”と改名したそうです)。そして、製造部門も持ちません。
製造部門で稼ぐ、という今までのカロッツェリアのスタイルとは大きく異なるビジネス構造ですね。だから、ジョルジェットはイタルデザインのことをカロッツェリアとは決して呼ばなかったのです。
新会社イタルデザインは、アルファ ロメオ アルファスッド、フォルクスワーゲン ゴルフなど大きな開発プロジェクトを受注し、創業まもなく引っ張りだことなりました。日本でも、ほぼ全てのメーカーをクライアントにするほどでしたからね。
●韓国初の国産車の誕生に大きく貢献
ここで彼らの仕事ぶりが、一国の自動車産業育成に大きく寄与したという事実もお伝えしておきましょう。当時はまだノックダウン方式で乗用車を生産していたヒョンデのために、世界へ通用するデザインを提案し、生産化までサポートしたのはまさにイタルデザインでした。
それは、1973年にヒョンデのマネージャーが、海外営業担当の宮川氏を訪ねたところからスタートしました。ご存じのように、スタイリッシュなポニーは大ヒット作となり、世界へ通用する初の韓国製乗用車としての礎を作ることにも成功したのです。
初代ポニーには4ドアセダンだけでなく、2ドアクーペのプロジェクトも存在し、1974年のトリノショーで両モデルが発表されました。このクーペはイタルデザインの提案であった“アッソ・シリーズ”(そのうち1台はいすゞ ピアッツァとして商品化されました)のコンセプトが活かされた、ウェッジシェイプの斬新なものでした。
低く広いルーフや寝かされたAピラー、セミ・リトラクタブルタイプのヘッドライトなど、まさに時代を先取りしたものだったのですが、残念なことにオイル・ショックなど経済的要因で、このクーペの商品化は見送られました。
実は、来る2024年に生誕50周年を迎えるポニークーペ・コンセプトを讃えて、ジウジアーロ親子の手で走行可能なモデルが復元されたのです。そして、2023年5月にイタリアのコモ湖畔でそのお披露目が行われました。そして、同時期に開催されたコンコルソ・デレガンツァ・ヴィラデステには、ポニークーペ・コンセプトに対するオマージュモデルである「Nビジョン74」も展示されるという凝った仕掛けをヒョンデは企画したのです。
ちょっと全体の流れが複雑なので補足しましょう。当時1台だけ作られたポニークーペ・コンセプトはすでに存在しなかったため(コンセプトモデルは必ずしも保管されません)、ヒョンデはジウジアーロ親子へその復元を依頼しました。そして、彼らは50年前のイタルデザイン流の手法でポニークーペ・コンセプトをそっくり復元し、ジョルジェット本人と共にヴィラデステ(コモ湖)の対岸にあるヴィラで開催された、ヒョンデ・リユニオンと称すイベントにて公開しました。
一方、ヴィラデステのコンセプトカー部門では、このポニークーペのスタイリングへのオマージュとなる水素・電気ハイブリッドのNビジョン74が展示され、新旧2台のコンセプトモデルがコモ湖畔に集結するという手の込んだ演出が行われたのです。このNビジョン74は、ジョルジェットが手がけたものではなく、ヒョンデのデザインセンターのイ・サンヨプの手によるものですが、両車の間には強い絆があるわけです。
私は、そのヒョンデ・リユニオンにも参加させていただき、ポニークーペ・コンセプトをジョルジェットの解説付で見ることができました。また、ヴィラデステではNビジョン74を前に、ヒョンデのウィソン会長をはじめとする皆さんと、ジウジアーロとヒョンデを結び付けた前述の宮川秀之氏のことで大いに盛り上がったのは興味深い一幕でした。
カーデザインの新しい潮流を求めて設立したジウジアーロのイタルデザインですが、激動の自動車史の中でどのように歩んで来たか、次記事にて、自動車業界を震撼させた大事件と共にお伝えしたいと思います。
(文・写真:越湖 信一/資料提供:ヒョンデ)