ジウジアーロ渾身の一作、いすゞ「117クーペ」デザイン秘話。「ある日本人」の活躍とは?【越湖信一「エンスーの流儀」 vol.002】

■歴史の目撃者・越湖信一さんが語る名車誕生の舞台裏

カーヒストリアン、ジャーナリスト、コンサルタントと様々な肩書きをもつ越湖信一さんによる連載第2回のテーマは、1970年代の日本車を代表するいすゞ117クーペ。何故、あの稀代のデザイナー、ジウジアーロがデザインをしたのか? いすゞとイタリアの名門カロッツェリアが繋がるきっかけとは? 知られざる名車誕生の舞台裏に迫ってもらいます。


●スーパーカーの名手、ジウジアーロがデザインした117クーペ

イタリアと日本はカーデザインにおいてとても大きな絆があります。というか、日本はとてもお世話になったということです。1960年代の日本車の多くがイタリアン・デザインの影響を受けました。日産はピニンファリーナ、マツダはベルトーネ、ダイハツはヴィニヤーレなど…。

1968年にデビューしたいすゞ117クーペ。2台集合
1968年にデビューしたいすゞ117クーペ。高級パーソナルカーの代名詞になった

そして、日本を代表する美しいクルマの一つと言えば、いすゞ117クーペ。1968年にデビューした、美しいスタイリングはジョルジェット・ジウジアーロの手によるものです。

彼はカロッツェリア・ベルトーネからカロッツェリア・ギアへと移籍しましたが、そのギアに在籍した短い期間にも、マセラティ・ギブリ(初代)、デ・トマソ・マングスタなど多くの傑作を手がけました。

そんなスーパーカーと同時期に描かれた117クーペも、世界的に高く評価された一台でした。そして、この117クーペの実績がますます日本車におけるイタリアン・デザインブームを高めることになりました。

●イタリアと日本の架け橋になった名士の存在

しかし、何故、イタリアン・デザインが日本の自動車業界を席巻したのでしょうか? それには多くの理由がありますが、ひとつには、良い物があればなんであろうと取り入れようという日本人の柔軟な気質によるものでしょう。まあ、一歩間違えばサルマネになってしまいますが…。

そして二番目として、イタリアのデザイン・テイストが日本人の感覚にマッチしたこと。対極にある北米デトロイトのデザイン・テイストよりも強いシンパシーがあったのです。

ジョルジェット・ジウジアーロ、ヌッチオ・ベルトーネ、宮川秀之
1968年トリノショーにて。写真左から、ジョルジェット・ジウジアーロ、ヌッチオ・ベルトーネ、宮川秀之

そして、もう一つ。イタリアン・デザインと日本の自動車産業を繋ぐコーディネーターの存在を忘れてはなりません。その最も重要な一人とは、ジョルジェット・ジウジアーロと共に後年イタルデザインを立ち上げた宮川秀之です(私の大先輩かつ重要なメンターでもある氏ですが、ここは敬称省略させてもらいます)。

●ひとりの若者が日本メーカーの経営陣に直談判

1960年にバイクで世界一周旅行を試みた若者、宮川秀之はイタリアで、その美しい現地のクルマに惚れ込んでしまいます。そして、その強い情熱を持って、イタリアン・デザインの導入が如何に重要であるかを日本の自動車メーカーのトップ・マネージメントへ説いて廻るという役割を果たしたのです。

1960年、山口モーターの125ccバイクで世界一周の旅に出発する宮川秀之
1960年に、山口モーターの125ccバイクで世界一周の旅へ出発した宮川秀之

その彼の情熱が日本の自動車業界におけるイタリアン・デザインのムーブメントを強固なものにしたことは間違いありません。当時はそんな若者の意見を聞くという度量の深さが、当時の日本企業のトップにもあったということですね。

●名門カロッツェリアが無償でデザインを提案

宮川秀之がベルトーネ在籍のジウジアーロと出会うことから、この117クーペ誕生への伏線はスタートします。ジウジアーロと宮川は意気投合し、日本の自動車メーカーのデザイン開発へとくい込んで行きました。そしていすゞにおいてフローリアンのデザイン開発を受注し、販売が開始されます。

そんな時、日本のマーケットの可能性を高く買っていたカロッツェリア・ギアのオーナーは、いすゞへスポーツモデルの提案も行おうということになりました。それも無償で。ジウジアーロが、デザインの発注を受けていたギブリやマングスタを差し置いて、一番先に手がけたのがこの117クーペだった訳です。

●超高価なハンドメイドモデルだった初期117

いすゞ ピアッツァの1/1スケールモデルをチェックするジョルジェット・ジウジアーロ
いすゞ ピアッツァの1/1スケールモデルをチェックするジョルジェット・ジウジアーロ

117クーペのエクステリアはとても微妙な造形を備えている為、従来のプレス加工ではそれを再現出来ず、イタリアからトップレベルの職人を招いて、ボディ製作のノウハウをいすゞは会得することになりました。そんな訳で初期モデルはハンドメイドによるボディ製造となり、とても高価なモデルだったのです。

ジウジアーロといすゞとの深い信頼関係から、ピアッツァなどの後継モデルが誕生したのはもちろん、イタルデザインを立ち上げたジウジアーロも日本のほぼ全ての自動車メーカーのデザインを手がけることになりました。

●イタリア人からも「一本取る」宮川流トークスキル

宮川秀之氏
現在もお元気でイタリアのワイナリー経営に注力されている宮川秀之大先輩

そういう意味で、この117クーペはイタリアとの深い絆をあらわすアイコニックなモデルであり、ジウジアーロの手がけた傑作の1台でもあります。

「ジョルジェット(ジウジアーロ)は、この117クーペのリアサスペンションがリーフ・リジットである点が気に入らないと、しつこく言っていました。しかし、私は『あのフェラーリやマセラティだってそうなのだから、そんなこと気にすることはない』と取り合いませんでした」と宮川は笑う。

ジョルジェット・ジウジアーロ、ヌッチオ・ベルトーネ、宮川秀之
現在も変わらぬ友情で結ばれるジョルジェット・ジウジアーロ(写真左)と宮川秀之(同右)

そう、宮川大先輩は口から生まれてきたようなイタリア人をもやり込める高いスキル、そしてジウジアーロとの深い人間関係を会得していたのです。そんな彼は現在、イタリアのトスカーナにてワイナリーを経営し、ますますイタリアとの絆を深めています。このハナシはまた今度。

(文:越湖 信一/写真提供:宮川 秀之、イタルデザイン・ジウジアーロ、越湖 信一)

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    https://clicccar.com/2022/09/30/1221789/

この記事の著者

越湖 信一 近影

越湖 信一

イタリアのモデナ、トリノにおいて幅広い人脈を持つカー・ヒストリアン。マセラティ・クラブ・オブ・ジャパン代表。ビジネスコンサルタントおよびジャーナリスト活動の母体としてEKKO PROJECTを主宰。
クラシックカー鑑定のオーソリティであるイタリアヒストリカセクレタ社の日本窓口も務める。著書に『フェラーリ・ランボルギーニ・マセラティ 伝説を生み出すブランディング』などがある。
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