日本中を熱狂させた「サファリ・ラリー」が舞台の小説・映画「栄光への5000キロ」って何?【モータースポーツ龍宮城・ゲート3】 

■サファリ・ラリーと日本自動車業界の重要な歴史的関係性

●日本の基幹産業/クルマはサファリで鍛え上げられた

昨年の2021年、サファリ・ラリーが19年ぶりに世界ラリー選手権(WRC)のシリーズ戦として復活しました。そこで見事に初出場チャレンジャーの勝田貴元選手がトップ攻防戦の2位を獲得するトヨタの1-2フィニッシュでしたが、2022年6月の23日〜26日のWRC第6戦ではなんと、トヨタ勢がサファリ・ラリー1-2-3-4フィニッシュを成し遂げ、3位に勝田選手が2年連続表彰台、という快挙でした。

3位勝田貴元のGRヤリス
3位勝田貴元のGRヤリス

世界で最も過酷であったラリーと語り継がれているサファリ・ラリー。世界各地の自動車クラブが立ちあげていた特色あるラリー・イベントをシリーズ戦として束ねていた往年のWRC時代では、とりわけて異色の過酷な競技でした。FIAイベントとしてラリー競技形態の安全性を重視し主要なメイン競技が3日間にまとめ上げられた時代のWRCシリーズに復帰したサファリもまた、やはりコンパクトになりました。

それでも世界各地の舞台を転戦するシリーズ戦に変わりはなく、サファリの特徴的な競技コンディションは消え失せてはいませんでした。 WRCは、年一のお祭のように地元から歓迎されて戦われています。2022年の今年11月、日本の愛知県地域にも、北海道で開催された2010年のラリージャパン以来久しぶりに世界からの名ラリー車たちが集います。かつて日本では老若男女誰もが知っていたサファリ・ラリーと思うのですが、そんなラリーがあったねと忘れ去られる悲しいことにならないよう、今年のトヨタ上位独占で再び過去の偉大なモータースポーツ業績も呼び覚まされるに違いありません。

ドキュメンタリー小説「栄光への5000キロ」
ドキュメンタリー小説「栄光への5000キロ」

というわけで、日本のラリー談義には欠かせないサファリ・ラリーを今一度、振り返ってみたく思います。日本でのサファリブームを生み出した原点と言えば、やはりドキュメンタリー小説「栄光への5000キロ」でしょう。ホコリを払った玉手箱のなかの蔵書から、もくもくと煙が立ち昇らないように復読してみると…。

●日産ワークスの1966年サファリ・ラリー参戦の現場一部始終

「栄光への5000キロ」表紙
「栄光への5000キロ」表紙

今から55年以上も前、サファリ・ラリーという得体の知れないイベントとはなんなのかを、現場に展開するモータースポーツ競技のリアリティをもって伝え、知らしめたドキュメンタリー小説「栄光への5000キロ 〈東アフリカ・サファリ・ラリー優勝記録〉」が発刊されました。1966年の第14回大会に日産自動車のワークスチーム監督として派遣された、当時の研究所実験部長の笠原剛三が執筆したものです。

近頃のネット情報の氾濫など想像もしていなかった時代、もちろんEメールなどなく、現場との重要連絡を本社と早く確実にとる必要があるとすれば、そのやりとりのメイン手法は電報やテレックスだった時代。電報といっても既に今どきの若い人で分かるひともいるのかどうか、と思われる遥かな昔のことではありますが、日本の自動車業界が世界に撃って出ていったその先鋒の有り様が、とんでもないラリー競技の中で進んでいるのだという実体験模様が書き留められているのです。

単なる一メーカーの業績伝播手段にしか見てとれない報告書のようなものではありません。そこにはサファリとは、ラリーとは、こんなにもみんなの力がそれを取り巻き、結集してくる競技なんだすごいなあと、人と人とのやりとりが、時に情感とともに浮き彫りに報告されてます。

1993年オートスポーツ誌抜粋
栄光への5000キロのポスター、1993年オートスポーツ誌抜粋

これが原作になり、壮大なロマンが映画として作り出され、命がけの熾烈なビジネス世界でもあるモータースポーツは愛と希望に溢れているのだと日本全国に知らしめたのが、昭和の大スター、石原裕次郎と大女優、浅丘ルリ子が共演する大ヒット映画「栄光への5000km」でした。こちらではモンテカルロ・ラリー、日本グランプリなどのシーンも盛り込まれ、フィナーレのサファリ・ラリーへと展開されてゆきました。

とは言え原作は、まさに胸に刺さってくるリアリティです。筆者の笠原が『えらいことだがもうのっぴきならないんだ。…六十余日をやるだけの事をやりぬく他はない。病気にもなれないんだぞ。……祈るような気持ちで静かに息をのんだ』(『 』内は原作からの抜粋文:以下同様)とナイロビの空港に、着陸を迎えるところから始まります。

そしてサファリ・ラリーとはなんなのか、世界のメジャー媒体の新聞雑誌の評価などが引用記載され、

『「これは世界で最もタフで最も興奮させられる路上ラリーである」ザ・タイムズ』

『「サファリ・ラリーは、世界で今なお行なわれている最後の数少ない偉大な自動車冒険の一つである」ル・オート・ジュナール』

などなどが展開していきます。

さらに当時シェル石油が発行した「サファリ・ラリーの歴史」というものから、笠原は一部引用して、その発祥のいきさつにふれています。

今年在位70周年を迎えたセレモニー「プラチナ・ジュビリー」がイギリスで行われていたエリザベス女王。戴冠式は1953年でしたが、そのホリデーにサファリは第一回大会が開かれることになったのです。

ドキュメンタリー小説「栄光への5000キロ」
ドキュメンタリー小説「栄光への5000キロ」

しかし初開催に至るまでもすんなりとはいかなかったあらましが述べらていれます。そもそも大会の創始者、東アフリカ・サファリ・ラリー委員会会長のエリック・セシルが構想を抱いたのは1951年とのこと。それは前年1950年にナイロビ〜ケープタウン往復競走で新記録をたてた従弟ネイル・ビンセントに、セシルはナイロビ郊外の1周3マイルのサーキットでのレースが面白かったと語りかけたのですが、ビンセントはサーキットを『輪をかいてぐるぐる回っている』とし、それよりは『公道上をぐっと長距離を走る競技をやってみたらどうだろう』との応答。なるほどとセシルは案を練るのですが『どの案も何かしら障害があってまとまらなかった』ものでした、と。それでもケニヤがまだイギリスの植民地であった時代、エリザベス女王の戴冠式ホリデーの祝い事としての勢いをかって、うまくイベント達成の日の目を見るところとなった、というのです。

1953年、競技形態もまだしっかり定まったモノではなく、どんなクルマも参加でき、クラス分けはナイロビでの販売価格、60万円、80万円、100万円を境に4クラスに分けられていたとも。競技車がケニヤのナイロビ、ウガンダのカンパラ、タンザニアのモロゴロをそれぞれスタートし、2000マイルのルートを経てともにナイロビにいち早く帰還する勝負だったそうです。

「栄光への5000キロ」
ドキュメンタリー小説「栄光への5000キロ」

その後、年ごとに形態も整い、開催期日をイースターの祝日に添うものとし、スタート/ゴールをナイロビとして3カ国を経めぐるレッグ形態となり、距離も3300マイルと5000km相当に伸びてゆき、参加者も増え、1960年の第8回大会ではFIA(国際自動車連盟)のスポーツ法典に準拠した競技へ。「東アフリカ・サファリ・ラリー」と命名されていきました。

異色のイベントですが世界からエントラントを呼び寄せます。その理由を笠原氏はふたつほど挙げています。ひとつは『このラリーが、極めて厳しい「人と車の耐久力を競う」悪路高速耐久ラリーだということ』 そしてもうひとつは『国際規約のグループ1、即ち年間生産千台以上の、殆ど改造を許されない市販されているそのままの、乗用車だけの競技だということ』。

クルマの開発が進められモータースポーツの現場で観客たちに性能を誇示していった1960年代のクルマたちですが、特殊コースであるレースでの性能誇示とはまた違った訴えがラリーにはありました。いわゆる生活公道でのラリー競技、しかもその公道すら別格であるサファリですから、市販されているクルマとして、『もしこの試練に耐えて完走できたら、その車の信頼性は世界の注目する公開の檜舞台で太鼓判を押されたことになる』 ということなのです。単純明快、サファリの競技で証明されることは、乗りこなせばどんな道でも速くて壊れないとてもいいクルマ、ということになります。

●ニスモ初代社長「難波靖治」のサファリ挑戦もチラリと掲載

1963年サファリ・ラリーを走るブルーバード310
1963年サファリ・ラリーを走るブルーバード310

日産は日本メーカーとして初めてのサファリ・ラリー挑戦を、3年前の1963年、第11回のサファリ・ラリーから始めました。11人ほどのスタッフ編成、未開の地でもあったアフリカの辺境も競技フィールドだっただけにドクターも引き連れていった初回だったとのことです。セドリックと312型ダットサンでの挑戦でしたが、『サファリ史上空前の悪条件に見舞われて、八十四台中僅か七台しか完走を果し得ず』だったという1963年のサファリには、後にニスモ初代社長となる難波靖治の参戦もありましたが、その記述もこの書には見られます。

「栄光への5000キロ」
「栄光への5000キロ」には、当時ドライバーでサファリに出向いている初代ニスモ社長、難波靖治の名も記述されている

『難波靖治も、現地の英人ドライバー、プリチャードと組んでサファリに挑んだが、泥濘の坂道に捕えられて涙をのんだ。しかしニッサンチームは貴重な体験と、数々の技術資料と、そして「走破」の自信を得て帰国した』と。

こうして1966年、過去数年間の経験で得たものを踏み台にケニヤに乗り込んでいったとは言え、前述した着陸間際の思いでケニヤに向かったのは、笠原と若い武藤美春メカニックとのふたりだけでした。とんとん拍子に好成績を上げてきたわけではなく、時代も節約ムードとなっていた60年代半ば、サファリ・ラリー挑戦を続けてゆく方針を持続させるためにも最前線に立つ笠原に、この年はなんらかの正念場であったに違いありません。

笠原はケニヤでの活動拠点ガレージの設定から競技ドライバーたちとの追加契約、船積みされてモンバサにやってきた5台の競技運用車両ブルーバードや物品の通関手続、現地での生活諸経費、チーム運営のあらゆるマネージメントをすべてひとりで進めながら、サファリ・ラリーでのさらなる上位目標達成に向かっていったのです。

そこには当初のブルーバード3台体制からチーム賞に向けて追加クルー1台の英断をしたいきさつもあり、現場のリアリティが伝わってきます。長年ベンツで出場しクラス優勝を遂げてもいたカードウェル夫妻が、過去3年のブルーバードの挑戦のありさまに感化され、可愛いがいい車だということでオーナーになっていたことから、ディーラーからのオファーが飛び込み、急遽チームに加えることになるのです。

オートスポーツ記事1965年、日産のブルーバードSSが惜しくも時間切れ失格となったと右上にある
オートスポーツ記事1965年、日産のブルーバードSSが惜しくも時間切れ失格となったと右上にある

そこにはまた『一昨年、うちのドライバーの若林がモロゴロ附近で時間切れとなり、ただちにサービス隊に加わって活動していたとき、…「あのおばちゃん達には度肝を抜かれた」と舌を巻いていた』というカードウェル夫妻に対する記載がありました。若林とは、言わずと知れた後の日産チーム監督、若林隆。彼が女性ドライバーとして高く評価しているのだからとの笠原が下した合格判断の理由ともいえるものでしょう。

●過酷なラリーの戦績を支えた驚きの現場のありさま

1966年ブルーバードSSがクラス優勝を遂げた第14回東アフリカ・サファリ・ラリー
1966年ブルーバードSSがクラス優勝を遂げた第14回東アフリカ・サファリ・ラリー

本番に向けての練習走行確認要項をこなし、サービス隊準備を進め、スタート順位を決める抽選会から、交換されルール違反とならないようにパーツなどに封印がされる車検まで、競技スタートとなるまでの労苦が、のべつまくなしであるのは競技世界の常であるかもしれません。

そして迎える本番。戦いの幕が開けても陸上競技の100メートルとは違い、5000キロは長いもの。書中のドキュメントはさらにエキサイトに続き、過去3年間、完走に至らずリタイヤが続いていた挑戦が、見事に結実するピークへの流れが記述されていきます…。

ブルーバードは1000〜1300ccクラスのBクラス優勝と2位を遂げ、総合でも5、6位。さらにはチーム賞2位の快挙でした。 がしかし、この結果に至るために最後の最後まで労苦があったことが明かされており、読者としては涙が出るほどです。

笠原はナイロビのゴール会場に現れたブルーバードを目に留め歓喜に浸りますが、その後1時間と経たずに、 『決勝ラインで二台を迎えたときの喜びの絶頂から、いまは失格の谷底に蹴落とされようとしている』ゴール後の再車検のためにエンジンの一部を時間内に分解して審査に至らなければ失格、というものを笠原は検査官から突きつけられてしまったのでした。

サファリはクルマの信頼性が問われている競技でもあるため、競技前の車検で封印されたデフやトランスミッション、エンジンはもとより、交換した部品が小物であっても、ランプひとつ壊れても一点減点などが加算されるルールがあったのです。この再車検に備えていたはずの地元メカニックたちが、こともあろうに帰っていってしまっていたのです。

笠原は自ら工具を手にしてエンジンルーム下に潜り込み分解作業、レギュレーション違反、減点に関わる不正な部品交換などがなかったのかのチェックに応じて、点検箇所を開示するこの現場の苦境を、武藤とともにただただ進めるのみ。情のある主催者側の御託宣もあって時間リミットを切り抜けていったのですが、工具を握る握力などすでに麻痺してしまうほど。こうしてクラス優勝を勝ち得ていったのでした。

「栄光への5000キロ」が伝えている1966年クラス優勝を遂げたブルーバードSSは空輸で帰還、銀座での展示となった
「栄光への5000キロ」が伝えている1966年クラス優勝を遂げたブルーバードSSは空輸で帰還、銀座での展示となった

さらには翌日も、午後5時からの表彰式に持ち込む優勝車を組み上げなければならないなど、やること山積…。ゴール後の嬉びの中にいられた人たちとは、雲泥の差の現場が伝えられています。笠原がなんとかすべてを片付けて映えある表象式に参列したのは、式も終わりに近い頃だった、とも。

世間には結果としてのクラス優勝の誉れは流れていっても、こんな事態だったなどとはなかなか知られないことが多いものです。歴史に留められる記録だけが知られがちですが、歴史すらいちばん改ざんを狙われるもの。「栄光への5000km」というドキュメントの素晴らしさは、こんな現場を打ち明けている文面にもあるのではないでしょうか。

●サファリ・ラリーの魅力は今も同じ

1966年第14回東アフリカ・サファリ・ラリーでクラス優勝を遂げたブルーバードSS
1966年第14回東アフリカ・サファリ・ラリーでクラス優勝を遂げたブルーバードSS

サファリ・ラリーが昔から持つ特徴は『必死の高速連続運転』、高速ラリーであったということでしょう。『海抜0米地帯から三千米近い高地まで、炎熱四十度の猛暑からヒーター無しでは縮みあがる十度前後の冷気まで、山あり谷あり、砂地あり、密林あり、岩石あり泥濘あり、川あり草原あり、そして乾けば黄塵万丈、降れば一面の泥流と化すサファリ・ロードが延々と続いているのだ。…このコースを、総平均時速八十粁で走り抜くことを要求されるということは、…殆ど百十粁以上の時速でとばし続けることを意味する』

WRCシリーズに復活した2021年からのサファリ・ラリーは一般車を隔絶したスペシャルステージ制での競技になりました。とは言え古くからのサファリ・ラリーの特色の片鱗は色々と残っています。

今年のサファリは全行程1203kmで、スペシャルステージのトータルは342kmほどでした。これを優勝車のSSの所要時間、3時間40分24.9秒でアベレージスピードを算出すると93km/hほどです。それでも全SS19箇所のうち10箇所はアベレージ104km/h以上のSSでした。WRCシリーズの中でも30km以上と長いSSがあったり、そのSS平均スピードも114km/hオーバーがいくつもあります。

3位になったトヨタGRヤリス・ラリー1の勝田貴元
3位になったトヨタGRヤリス・ラリー1の勝田貴元

SS平均スピードが高いものは、北欧系のイベント、フィンランド、スウェーデン、エストニアなどのなだらかなプレートにあるコースもありますが、前述の『必死の高速連続運転』の引用どおり、古くからサファリは高速バトルのフィールドでした。50年以上も前の悪路の5000kmを、時速80キロの平均速度で踏破することを課せられた競技なのだと笠原が述べているように、これもまた改めて驚くしかありません。かつてはサバンナの大平原をかけ抜ける長いセッションがさらにあったこともあり、ペース配分の戦略として最高速走行をできるだけ長く保ち続け有効に使う、高速バトルが展開されていたのです。

1984年サファリ最速バトルを制したワルデガルドのセリカTCターボ
1984年サファリ最速バトルを制したワルデガルドのセリカTCターボ(オートスポーツ記事)

グループBセリカTCターボでビョン・ワルデガルドが優勝した1984年のサファリ・ラリーでは、全日程ドライコンデョンでもあり、結果2位になるアルトーネンのオペルも追い上げの姿勢を崩さず、最終競技区間でも5速全開勝負が続いていた「経験上いちばんの最速サファリだった」と振り返っています。そこを悠然と逃げていったトップ、ワルデガルドのセリカは、規則ギリギリまでのボアアップチューニングされた2.1リッター、345馬力のエンジン、車重も規則限界の960kgに迫る軽量化がなされていたマシンで、時に240km /hオーバーの俊足で積み重ねてゆくタイムの余裕があればこそ、慎重に勝ちを引き寄せていけた、そんな長距離セッションのバトルでした。

昨年WRC選手権のサファリで、若手ドライバーの勝田貴元は2位となり、トヨタはセバスチャン・オジェとの1-2フィニッシュ。日本人ドライバーとしてのWRC初優勝を1992年のアイボリーコーストでギャランVR-4で遂げ、1994年のサファリではランサー・エボリューションでサファリ2位になった篠塚建次郎に並ぶ快挙を成し遂げました。実に27年ぶりということになります。1994年のAUTOSPORT誌面を見ると「どんなマシンでも全開で走ったらサファリでは壊れてしまう。ペースを見極めて最速で走るのがサファリなのだ」と篠塚建次郎の言葉がありました。

1994年サファリ2位の篠塚建次郎のランサー・エボリューション
1994年サファリ2位の篠塚建次郎のランサー・エボリューションのオートスポーツ記事

さらに今年のサファリ・ラリーでは、トヨタ・ヤリスが1-2-3-4独占、1993年のST185セリカGT-FOURでのトヨタ1-2-3-4独占の再来となりました。この時には、ユハ・カンクネン、マーク・アレン、イワン・ダンカン、そして上位独占の一役をになって4位になった岩瀬晏弘もいます。かと思えば、選手権カレンダーで年毎に変動があった頃、WRC選手権がかかったものではありませんでしたが、1995年には藤本吉郎がサファリ優勝を遂げています。サファリ・ラリーは、日本人にとってやはりなじみの深いベントでしょう。

「栄光への5000km」からは3世代にわたる年月が経ったということになりますが、そういえば勝田ラリースト・ファミリーは、祖父:照夫、父:範彦、子:貴元と、シンクロしているではありませんか。一方、ウイナーになったカッレ・ロベンペラは21歳の若さ。こちらの世代を振り返れば、4度世界チャンプに輝いた同郷フィンランドの偉大なラリードライバー、ユハ・カンクネンが世界の舞台に現れ出し、サファリで彼にとってのWRC戦初優勝を遂げたのが1985年、26歳でした。

ラリー競技黎明期において活況を呈した日本アルペン・ラリー、親しみを日本各地に広めていった全日本ラリー選手権、そしていよいよ勝田の故郷、トヨタのお膝元、愛知に凱旋雰囲気を漂わせながらやってくると思われます世界選手権WRC『フォーラムエイト・ラリージャパン2022』、日本でもまたラリーが長々と語り継がれ、さらに身近になっていってほしいものです。

※文中敬称略

(文:游悠齋/写真:日産自動車、トヨタGAZOO Racing WRT、AUTOSPORT)

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