目次
■スズキが歩んできた100年とは?
2020年3月15日、スズキが創立100年を迎えました。
鈴木式織機製作所から出発し、2輪車の製造に転身して成功を収めたのち、日本で初めて軽自動車を量産しました。
現在も軽自動車のトップメーカーとして君臨するスズキは、常に時代が求める新しいスタイルの軽自動車を開拓し、軽自動車の発展とともに歩んできました。
クリッカーでは、スズキの創業から現在に至るまでの100年間を、軽自動車の歴史とともに振り返っていきます。
【第1回・2020年8月1日公開】
第1章 始まりは鈴木式織機、そして2輪車への挑戦
その1.始まりは鈴木式織機製作
●鈴木式織機製作所の創業
スズキの起源は、トヨタ自動車と同じ織機メーカーです。
1909(明治42)年、鈴木道雄は21歳の若さで浜松市に「鈴木式織機製作所」を設立しました。なぜ織機なのかというと、遠州(静岡県西部)地方は江戸時代から綿花の栽培が盛んだったので、織機に対する需要が多かったことが背景にあります。
創業の翌年には、2色の横糸を自動的に切り替える装置を考案して評判になり、順調に業績を伸ばしました。無地か縦縞しかできない時代に、横縞や格子柄を織ることができる画期的な発明でした。おかげで「鈴木式織機製作所」は100人近い従業員を抱える大きな工場に成長し、1920(大正9)年にスズキの前身となる「鈴木式織機株式会社」に改め法人組織化したのでした。
1929(昭和4)年には、独特な格子柄を効率よく織れる「サロン織機」を開発して海外にも進出。サロンとは、インドネシアなどの民族衣装(腰巻)で鮮やかなサロンを織れる鈴木式織機は大人気となり、2万機以上販売したインドネシアでは「SUZUKI」が織機を表す言葉になったほどです。
トヨタの前身である豊田佐吉の自動織機は、無地の布を大量生産できたことが画期的でしたが、柄物については鈴木織機の方が優れていました。
●自動車製造への挑戦
「サロン織機」で大成功を収めた鈴木道雄社長でしたが、半永久的に使える織機では事業展開に限界があり、また、景気に大きく左右されることに将来への不安を抱いていました。一方、隣の三河(愛知県東部)では1933(昭和8)年に豊田佐吉が豊田自動織機に自動車部を設けて、長男の豊田喜一郎が自動車事業への方向転換を目指していました。
この豊田自動織機の動きに触発され、鈴木道雄社長は1936(昭和11)年に娘婿の鈴木三郎に研究開発を指示。鈴木三郎は、すぐさま英国の小型車「オースチン」を購入して分解調査を開始。豊田喜一郎が大型乗用車の国産化を目指したのに対して、鈴木道雄は小型車を目指しました。
1939(昭和14)年、ほぼ自社製部品で完成した試作車は、当時のクルマとしては優秀なレベルであり、すぐに本格的な工場の建設に着手しました。
しかし、忍び寄る世界大戦の暗い影によってクルマの開発は中断。新工場は、砲弾や機関銃を生産する軍需工場へと様変わりしたのでした。
●鈴木道雄はどんな人
織機から自動車産業への道を切り開いた鈴木道雄の歩んだ道は、豊田佐吉とよく似ています。ふたりとも、発明家であり企業家であり、何よりも先見の明に秀でている点が共通しています。
・1887(明治20)年、静岡県浜名郡芦川村で農家の次男として誕生
小さい頃から、両親の綿摘みの仕事を手伝いながら織機の音を聞きながら育つ
・1901(明治34)年、14歳で大工職人今村幸太郎に弟子入り
・1904(明治37)年、17歳のとき親方が織機製作に転業したため織機の技術を学ぶ
・1908(明治41)年、21歳のとき足踏織機の需要が高まったことに注目し自ら織機を製作。従来の織機に比べて効率が大きく向上したことから評判となり、注文が殺到
・1909(明治42)年、22歳で「鈴木式織機製作所」を設立
古びた蚕小屋を改造した工場で、足踏み式織機の製作を本格的に開始
・1911(明治44)年、先染横縞模様を織る二挺足踏織機が完成し、実用新案を取得
・1920(大正9)年、「鈴木式織機株式会社」と法人化して社長に就任
(文:Mr.ソラン 写真:スズキ、トヨタ自動車)
第2回につづく。