目次
■自動車レポーターという仕事はじめ
●ラリースト、レーサー、そして自動車ジャーナリストへ
自動車ジャーナリストの清水和夫です。これからclicccarで連載を始めることになりましたのでよろしくお願いします。
「始めることになりました」というと変な言い方なのですが、早い話が「俺に何かやらせろ」と編集長に迫ったというのが本当のことで! まずは自己紹介から。
清水和夫のジャーナリストの第一歩は(株)三栄(旧社名:三栄書房)のモーターファン誌から始まったのです。その辺りから始めます。
●全日本ラリーとFJ1600レースに参戦していました
それまでチームスバルでワークスドライバーとして、全日本ラリーとジュニアフォーミュラであるFJ1600レースに参加していました。
FJ1600はスバルの水平対向エンジンを使っていました。パワーのないレオーネのエンジン(EA71/ノンターボの水平対向)だったけど、FJは超軽いので、筑波サーキットでラジアルタイヤでも1分02秒くらいで走っていましたね。軽さはスポーツカーの生命線だと分かりました。
全日本ラリーのレオーネはパワー不足が著しく、唯一の武器は4駆でした。
当初はパートタイム4駆だったので、FFと4WDをレバーで切り替えて走っていました。その武器が活かせるのは雪道だけ。春になるとまったく勝てない季節を過ごしていました。やがてレオーネも売れなくなり、ラリー活動は中止となり、ドライバーは全員クビでした。
余談ですが、レオーネは1989年にレガシィにフルモデルチェンジし、昭和から平成に変わる瞬間に飛躍したのです。まさに時代の変化とスバルの進化が偶然にも同時進行していました。
●雑誌の試乗テストレポーターとしてのスタート
1980年代中頃に、フリーのドライバーとして過ごしていたら、モーターファン誌のM氏から声がかかり雑誌のテストをすることに。そこからレギュラー執筆陣の仲間入りをして、やがてゲンロク誌創刊を手伝うことになったのです。
超面白い時代は1980年代後半でしたね。
モーターファン誌の姉妹誌であるオプション誌では、稲田Daiちゃんがハチャメチャなキャラでチューニングカーの世界を切り開きました。さすがのオプション誌も非力なレオーネには手を出さなかったけどね。
ゲンロク誌ではスーパーカーとセクシーな女性を追求し、メカ好き自動車雑誌に新しい文化を大砲のように打ち込みました。
正統派自動車批評のモーターファン誌、チューニングの面白さを訴えたオプション誌、ファンキーな自動車雑誌のゲンロク誌。まさに三栄書房黄金期でしたよ。
●極悪しみちゃん誕生!?
その後、三栄書房以外のメディアで仕事するようになったけど、おもしろかったのは90年代のベストモータリングというビデオマガジンでしたね。マトモなインプレあり、サーキットのバトルありで、出演者も楽しんでいました。
バトルでは「ウォッシャー攻撃の極悪しみちゃん」と言われ、なんども危ないシーンもあったけど、お互いにプロ同士なので、ハチャメチャにならずに済んだのです。
●俺の人生を変えたクルマ…GC10スカイライン!
俺はこの業界に入ったときから、ずっと言い続けていたことがあるのですが、それは「クルマは人生を変える」というもの。
もし、あのとき、あのクルマと出会わなかったら、人生は変わっていたはずなのですね。たかがクルマ、されどクルマ。しかし、クルマは命をのせ、命を守り、人生を変えるポテンシャルがあります。
あのクルマのおかげで今がある…と断言できるのですが、あのクルマとはなにか?
平成元年に登場し、時代の申し子となった日産R32スカイラインGT-Rも人生を変えるパワーがありました。
が、実は最初に出会った人生を変えるクルマは、1972年の三代目スカイライン、GC10でした。
最初から直列6気筒の2Lエンジンだったので、18歳の小僧には贅沢すぎるクルマでした。この箱スカで長野・群馬などの山岳路を走りまわりました。山岳暴走族と言われましたが、その通りで、すぐに車高を高めてラリーカーにチューニングしたのです。クルマの楽しさ、運転の難しさを知ったのです。
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次回はその先の話しをしましょう。
(清水 和夫/画像:オートスポーツ・OPTION・GENROQ)