自動車ジャーナリスト界の生き証人、山口京一さんが語り尽くした、あんな秘話こんな秘話【その1】

●AJAJ主催・誰でも参加できる無料勉強会が9月2日に開催予定

AJAJ勉強会

主に自動車ジャーナリストが中心となり在籍し、100名以上の会員を擁する団体・日本自動車ジャーナリスト協会(AJAJ)。自動車メディアとともに内外にメッセージを届けるほか、安全運転啓蒙イベントなど陰日向に積極的な活動を行っています。

発足は1969年ですから、2019年はちょうど50周年を迎えます。というわけでアニバーサリーとして「公開勉強会」が催されていることをご存知でしょうか。

勉強会とはいっても、かしこまったお堅い場ではなく、同会の名誉会員でもありリビング・レジェンドともいうべき自動車ジャーナリスト・山口京一さんが、これまで歩んでこられた足跡を自らの語り尽くすトークセミナー形式のイベントです。これまで2月、6月に開催されてきて、第3回は9月に開催予定です。

主催は同会ですが、参加は自動車ジャーナリストでなくともどなたでもOK、参加費は無料です。毎回、席が足りなくなるくらい盛況で、とても規定の時間で語り尽くせるわけもなく毎回、時間ギリギリまで密度の濃いトークが繰り広げられています。

AJAJ勉強会 山口京一

御年86歳でありながらいまだ現役、日本におけるモータリゼーションのはるか前から執筆・寄稿をされてきた山口京一さん。業界内では親しみをこめて「山京(やまきょう)」さん、「ジャックさん」と呼ばれています。ここでも、僭越ではございますが山京さんと呼ばせていただきます。

山口京一

山京さんは外誌へ寄稿する際は、洒落たミドルネームを持っていました。それが「jack」という名です。表記は「Kyoichi “Jack”Yamaguchi」です。海外の方がなかなか発音しにくい「京一」の代わりに呼びやすくするため付けたミドルネームなのですが、じつは「ジャック」は人名ではなく、天邪鬼(あまのじゃく)」から取ったものなんだとか。こんなところからもウィットにあふれた感じが伝わります。

「絆 ── 人・陸・空・水」と題したこの講演は、ネットを巡回したくらいでは出てくることのない、その時代に生きた当時者しか知ることのない貴重な話が多く聞ける内容となっています。第1回の開催場所として選ばれたのは、お台場にあるBMWの拠点、BMW GROUP Tokyo Bayでした。

中村孝仁

トークのメインはもちろん山京さんですが、ファシリテーターとして中村考仁さん、鈴木直也さんのジャーナリストが脇を固めます。

メルセデスW25

トークは山京さんの生まれた年、1933年の出来事を振り返るところから始まりました。時は、ドイツ車に例えるならレーシングカー「シルバーアロー」メルセデスW25が誕生した頃。また。4つの丸が並んだアウディのエンブレムが誕生した頃でもあります。

メルセデスSSK

ルパンの愛車でおなじみのクルマ、メルセデスSSKについて「ナチスドイツのプレッシャーでF1参戦した」とさらりと語る山京さんですが、文献でしか見たことのないような時代に生を受けていたことに、あらためて重みを感じます。

ダットサン10型

ちなみに日本でいうなら、DATSUN11型が誕生した頃です。

小林彰太郎

Automobile Journalist科があるというイングランド・コベントリーにある学校で学んだ山京さん。同じく重鎮である小林彰太郞さんとの出会いもあり、ライター活動を始めたのは1964年頃。初めて書いた原稿は007についての原稿だったそうです。

ホンダ・シビック

おりしもシビックに代表されるように、日本車が世界に進出していった時代です。

ROAD&TRACK

1967年には、米「ROAD&TRACK」誌において初めて日本車が表紙になりました。

中村良夫

そんな機運を感じたのが、当時ホンダの役員でもあり、アメリカの自動車技術会(SAE)の役員でもあった中村良夫さんでした。

山京さんに「欧米から勉強させてもらった日本車がここまで来た。これからは日本の技術をアピールしてほしい」と、SAEの技術者向け機関誌の執筆を依頼されます。

中村良夫

英語は堪能だったとはいえ、あまりのハードルの高さに「技術的な正規教育を受けてないので難しい」と尻込みするも中村さんから押し切られるかたちで1970年から執筆をスタート。2018年に「卒業させてもらう」まで、50年近く執筆されたそうです。その間、クレームはわずか1件のみ。

某車に搭載した直6エンジンを「世界初の狭角バルブレイアウト」と紹介したところ「イギリスでは1924年に4バルブエンジンが実用化されたことがある」と、自動車先進国ならではの突っ込みが入ったそうです。

戦後も復興期である1950年代。景気回復にもほど遠く就職難の時代に生きた山京さん。「真面目に英語を勉強したい」と米極東空軍司令部自動車輸送部の通訳の職に就きます。

そして東京・大手町から日比谷にかけて置かれた極東総司令部に通うようになります。当時この界隈は極東総司令部が並んでいました。

US TRUCK

進駐軍が主に乗っていたのがジープでした。戦中型から戦後型へと進化する課程で、徐々に使い勝手や乗り心地が重視されるようになってきたそうです。

日本人はとてもおとなしく運転するのですが、アメリカ人の運転は乱暴だったそうです。前後リジッドのサスペンションということもあり、街中ではよくひっくり返っていたそうです。

そんなアメリカ人に向けて「ディフェンシブ・ドライビング」(防御運転)の大事さを伝えるプログラムが組まれるほどでした。

メカニズムもまだ稚拙でした。よく乗られていた6輪駆動のトラックは、そのシフト操作のし難さから、運転するアメリカ兵はしょっちゅう「ガッデム!」と叫んで嘆いていました。あまりにその言葉をよく聞くので、トラックの名前が「ガッデム」だと信じている人も少なくなかったそうです。そんなトラックも、のちに4速ATになったそうです。

AJAJ勉強会

しばらくすると空軍司令部は府中へと移ることになります。その頃、横田基地ではドラッグレースが盛んでした。

日本に駐留する米軍の数も減ってきたタイミングでもあり1958年、山京さんは転職を決意し、バルコム貿易という外資系商社に転じ、BMW本社から派遣されてきた重役の補佐として働くことになります。

BMW507 BMW ISETTA

そこではBMWを取り扱っていました。その頃のBMW車というと、501、502、506、507、イセッタなどです。しかしその頃は日本人にはクルマを売ってはいけないという時代でした。駐留軍人に向け、直販として売るのみでした。

AJAJ勉強会 AJAJ勉強会

その頃に、山京さんはモーターファン誌との接点ができます。取り扱っていたBMWイセッタの上級車「BMW600」がモーターファンロードテストに登場したのです。

20名ほどのテスターが集まって、村山のテストコースでのテストに同席したそうです。

BMW507

その頃、人気だったのはBMW507でした。米軍の高官にも人気が高く、当時、徴兵に行くタイミングだったエルビス・プレスリーも買ったそうです。

メルセデス300SL

同時代のライバル車といえばメルセデスの300SLでした。レーシングカー由来のスペースフレームと4輪独立懸架は、BMWはかなわない出来だったそうです。

「5000ドルのロードスター」というコンセプトで生まれたBMW507でしたが、デザインを手がけたのは、アルブレヒト・フォン・ゲルツというデザイナーでした。

日産シルビア

のちに日産のコンサルタントとなり、シルビアのデザインを監修しました。

じつは1950年代末には、BMWは深刻な経営危機でした。ダイムラーに身売りするというプランが浮上、実現する直前まで進んでいました。

それを止めたのが、実業家・ヘルベルト・クヴァントさんでした。「プレミアムブランドが1つだけになってしまうのはいけない」という強い思いで支援をし、BMWが存続することになりました。

BMW1500

その後は、ノイエクラッセ1500や、BMW700のEV、二輪では空冷水平対向2気筒エンジンなど革新的な商品を投入していきました。

ノイエクラッセ1500は、デザイナーのフリッツ・フィードラーと、レーシングドライバーでありながらエンジニアのアレックス・フォン・ファルケンハウゼンの共作で、空前の大当たりをしました。

BMW 2002

1972年のミュンヘン五輪ではBMW2002のEVも走らせました。ノイエクラッセ1500を作った「エンジン・キング」と呼ばれたアレックス・フォン・ファルケンハウゼンは1967年、F2マシンも作りました。

時はヒルクライム全盛期、圧勝ポルシェに挑みました。直6エンジンは複雑なバルブ構造なので耐久性に難がありましたが、善戦したそうです。

当時はメルセデスはV8エンジン、ジャガーはV12エンジンを打ち出していた時代。例えセダンでもスポーティさを求めるBMWは際だった存在でした。

「速いクルマ、いいクルマはたとえ燃費が悪くても買ってもらえる」。そんな考え方があったそうです。

ボブ・ラッツ

ダッヂ・バイパー

1973年には、カーガイ中のカーガイ、ボブ・ラッツ氏と出会います。BMWを経て、フォードでシエラ・コスワースを作り、クライスラーへ行ってはバイパーを作った希代のキャラクターです。「彼が来るとクルマがスポーティになる」と言われていたそうです。

BMW R60

1958年に、浅間山の麓にサーキットができました。レースで勝ったメーカーのバイクが売れる時代で、モータースポーツとレースは直結していました。ただ当時のBMWバイクの価格は69万円。自動車が買える値段だったそうです。

その頃のスターは伊藤史朗選手、望月修選手、そして高橋国光選手です。

高橋国光 高橋国光

レジェンドとして名高い現在の国さんですが、当時はもちろん新人でした。

当時の八重洲出版の酒井社長も尽力し盛り上げようとしていたレースが、全日本モーターサイクルクラブマンレースした。

「小金井にえらい速い少年がいる」と怪童ぶりがとどろいていた国さんでしたが、500ccと350ccが混走するレースで、350ccなのに500ccを抜き去り優勝したのが国さんでした。

山京さんがサポートしていたBMWとBSAでした。しかしBMW R60は、大雨のコースではダンピング不足のサスペンションのため敗退しました。

翌年はR69で参戦。エンジンではコンロッドをぴかぴかに磨いてフリクションを減らしました。現在でいう非破壊検査も行なったそうです。

さらに勝つために、山京さんにはミッションが課されました。「当時の世界チャンピオンマシン、MVアグスタに装着されていたキャブレターを探してこい」という上司の命令でした。

そう簡単に情報が手に入らないなか、ボローニャにある本社の住所を探し手配し、1959年の浅間には間に合うことができました。

カウリングについては、ホンダなどはアルミ製を採用していましたが、作ってくれる業者が見つからなかったこともあってノーズヘビーを承知でスチールになりました。

国さんの練習する場所は荒川と村山にあったコースだけ。走らせ、見つかった改善点は、エンジンを本社に送るなどして対策しました。

すでに当時は生産中止だったBSAデイトナ200 Shooting Starは、ダートコースに特化したギアレシオにした「浅間スペック」でした。結果は、国さんの連続優勝でした。その後、伊藤選手とともに世界で活躍します。

日本人の素質を世界へ轟かせましたが、現地の販売戦略のため、残念ながら徐々にヨーロッパのベストドライバーに代わっていきました。

そのあたりのストーリーは映画「汚れた英雄」でも描かれています。

浅間レースにおいてホンダのスタッフだった田中禎助さんは、その後ホンダNRの性能試験管のポストに就きました。

ホンダNR

伊藤選手は大きなクラッシュを機にレースを引退。現在でも消息不明のようです。

北野元選手、田中健二郎選手とともに「日産三人衆」とも呼ばれるようになった国さん。浅間からちょうど50年後にR381をパレードランしました。

日産 R380

と、こんな膨大な情報が台本もなく、脳内で当時の思い出を再生しながら、まるで昨日のことのように語られていくのですから、山京さんのその知識量たるや常人のものではありません。

AJAJ勉強会

ぜひ皆さんもその場でリアルに傾聴することを強くおすすめします。

このAJAJ勉強会は、次回は9月2日(月)の夜に開催予定です。場所は、東京・お台場のMEGA WEBで行われる予定です。

詳細はAJAJのホームページをチェックしてみましょう。

(畑澤清志)

【関連リンク】

日本自動車ジャーナリスト協会
https://www.ajaj.gr.jp/

Jack Yamaguchi’s auto speak 自動車ライタ―山口京一のmemoir
クルマ、飛行機、自転車もろもろ全般
https://gold.ap.teacup.com/yamakyoj/