【真説「スズキ初代カタナ」第3回】ヨーロッパ市場を攻略せよ。そのためにはインパクトのある武器が必要だ

■初代カタナをデザインしたのは本当にハンス・ムートだったのか!?

GSX750S/GSX1100Sカタナに18年間乗り続け、オーナーズクラブの副会長も努めた人物が、自らの経験と多くの人へのインタビューから「カタナ」というバイクについて考察する。

GSX1100Sカタナを知る者にとって、ハンス・ムートという人物は切り離せない存在である。一般的には「GSX1100Sカタナをデザインした人物」と言われているが、実は谷 雅雄さん(以下、谷さん)の話や近年明らかになった当時のさまざまな資料から見ると、微妙に異なる見方もできるのだ。

その真実はどうだったのか。順を追って解き明かしていこう。

ハンス・ムート氏とGSX1100Sカタナ
(ハンス・ムート氏とGSX1100Sカタナ)

スズキとハンス・ムートはどの時点でつながったのか。

そのキーとなる存在が谷さんである。1937年生まれの谷さんは、若い頃からバイク好きだった。25歳のときにスズキ自動車株式会社に営業職として入社。東南アジアなど海外で仕事をしたあとに日本でアメリカスズキの立ち上げに携わった。そして1966年には実際にアメリカに赴き、現地で販売店の開拓などを行ったという。当時のアメリカではT250などのバイクの人気が非常に高く、その販路の拡大に力を注いだのだ。

T250
(写真は1970年式のT250。搭載する空冷2スト2気筒エンジンは最高出力30.5ps/8,000epm、最大トルク2.82kgm/7,000rpmを発揮。パワフルだがピーキーなエンジン特性を活かすため6速ミッションを搭載。また、左キックを採用していた)

谷さんはアメリカで11年間仕事をしたのだが、そのあいだに本社のスタッフが海外研修に来たときなどの対応(お世話)などもしていたという。そのため営業マンでありながら、社内の設計者やデザイナーなどとの交流が公私含めてかなりあった。ここで築いた人脈が、後にGSX1100Sカタナが生まれるときに少なからず役に立つことになる。

1977年にアメリカでの仕事が一区切りついて、谷さんは日本に戻ってくる。すると次に待っていたのはヨーロッパ市場だった。

当時はスズキが日本で生産したバイクをヨーロッパ現地の輸入代理店に卸し、売ってもらっていた状態だった。しかし谷さんはアメリカでの経験から「それではいかん。やはりメーカーたるもの自らの手で販売しなければならない」と感じていた。

今でこそ現地法人の販売会社による車両販売は当たり前の話だが、当時はまだどのメーカーの販売会社もなく、それを設立するという考え自体も一般的ではなかったそうだ。つまり『現地の販売会社を作るということ』というのは誰もやったことのない仕事だったのだ。アメリカでの経験を買われヨーロッパ方面の担当となった谷さんは、手探り状態で仕事を始めたという。

1979年には実際にヨーロッパに渡り視察。異文化の地でさまざまなモノを見聞きして、肌で現地の空気を感じ取った。そして谷さんはヨーロッパ市場を開拓するためには『現地法人の販売網を使った「販売力」の強化』と『魅力的な製品の「商品力」』が必要だと感じた。

営業マンである谷さんは、現地法人の設立は経験があった。しかし商品開発については専門外である。それでもヨーロッパ市場を開拓するには、その2つが欠かせないという想いはどんどん強くなっていった。

EPSON MFP image

(アメリカでロータリーエンジンを搭載したバイク・RE-5<1974年>のPRに、1971年にアポロ14号で月面着陸した宇宙飛行士のエド・ミッチェル氏を起用。「非常に協力的でした」と谷さん<右>は言う)

これは筆者の推測になるのだが、谷さんは当時のスズキ車のラインナップに少々頼りなさを感じていたのではないだろうか。

営業職の武器といえばもちろん自社の製品である。相手に誇れる製品があればビジネスはスムーズに運びやすい。未開拓の地にスズキブランドを浸透させるために、インパクトのある武器が欲しいと思うのは自然の流れであろう。

そして1979年にある雑誌企画が開催され、谷さんの気持ちが大きく動くことになる。


(数々の歴史的なマシンが展示されているスズキ歴史館は、浜松のスズキ本社前にある。スズキ創業時のバイクからGSX1100SカタナやRE-5などの名車、レーサーなども展示されている。バイク好きなら一度は訪れて見る価値あり)

(横田和彦)