私の追っかけ、カッコよくいうと調査取材は、REに限りません。いま『クラシック』冠詞がつく1959年発表のBMC社ADO15『ミニ』から2000年のBMW・R50 『MINI』にいたる波乱万丈、クラシック・ミニなどのサスペンション考案開発者の旧友アレックス・モールトンのもうひとつの革新小径輪自転車、そして60年前の古巣(インポーター)だったBMWなどを追っています。
最近、気付いたのは、これらのクルマ、技術と関連した人々の直接、間接関係です。『因縁』とでもいいましょうか。追い追い記します。
ドイツ・リンダウは、ババリア州ボーデンジー(seeは湖、接するスイス、オーストリアではコンスタンス湖)の島を含む市です。フェリックス・ヴァンケルは、ここに住居兼研究所を構えました。リンダウからさして遠くないラールで生まれたヴァンケルは、独学で技術を身につけます。天才、鬼才といわれます。博士号は、REの功績に対しミュンヘン大学が授けた名誉称号です。
第2大戦中の魚雷、航空機エンジンなどの気密シール開発が戦争加担行為として連合軍に拘束されますが、多くのドイツ科学者、技術者がそうであったように釈放されます。宇宙ロケットで有名なフォン・ブラウン博士、そしてのちに私が知己を得る元ハインケル航空ジェットエンジン開発者で、戦後米カーティス・ライト航空機社RE研究部長となるマックス・ベンティーレ博士も拘束、釈放、優遇組です。
ヴァンケルは、リンダウで回転型内燃機関の研究開発に着手します。旧研究所は、3階建ての邸宅で、試作部品、REなどが無造作に置かれていました。メルセデス・ベンツ4ローターの排気系だけで、当時6気筒エンジンと同じくらい高価とは、中年記念館員の話。市販箱入りヤンマー船外機も蒐集していました。
1959年RE実用化発表では、BMWは手を上げませんでした。経営状態が悪化し、乗用車メーカーとしての存続に全力を尽くしており、それどころではなかったのでしょう。しかし、フェリックス・ヴァンケルのRE第1号は、BMW委託研究だったのです。いま私たちが知るヴァンケル型以前の構想で、3コのローターを組み合わ、吸入、圧縮、燃焼、排出サイクルを形成するタイプで、台上試験写真も残っています。
フェリックス・ヴァンケルとヴァンケルル研究所、NSU技術者の協力で造り上げたREは、彼の理想回転型でした。『回転ピストンエンジン』ドイツ語頭文字から”DKM”と呼ばれます。
3つのアペックスをもつ、端的にいえばおむすび形のローターが繭(まゆ)形作動室トロコイド・ハウジング内で回るのは、私たちが知るKKM型REと同じです。加えて、トロコイド・ハウジングも固定外側ハウジング内で回るのです。アペックスシールにとっては「優しい負荷」ですが、回転するトロコイドへの吸排気、そして点火の機構は、おそろしく複雑となります。得られるのは高回転、高出力と優れたあ気密シーリング、初期試作DKM125は、1ローター、単室容積125ccから26ps/17000rpmを台上で記録しました。
NSUのエンジン部長、ワルター・フレーデ博士は、ヴァンケル研究所のエルンスト・ヘップナー技師の協力を得て、トロコイド・ハウジング固定、ローター軌道運動型”KKM”の開発を決定し、推進します。ヘップナー技師は、フェリックス・ヴァンケルの古き相棒でしたが、絶えず衝突し、離れていました。
天才、鬼才と実行型コンビの別例を挙げましょう。クラシック・ミニなど、英BMC社で横置きパワーユニット、前輪駆動車を構想開発した偉人がサー・アレック・イシゴニスです。東京台場で開催されたミニ40周年に来日したのがイシゴニスの右腕設計者、ジャック・ダニエルスでした。彼は、こう形容しました。「イシゴニスはインスピレーション=霊感型、私はパースピレーション=大汗仕事型なのだ。それが、うまくいった」
RE開発中のヴァンケルとヘップナーは、しばしば衝突したそうです。
KKM型選択と開発が決定された時、ヴァンケルは、「君たちは私のサラブレッドを荷物輓馬にしてしまった」と怒ったといいます。(つづく)
(山口京一)