豊田章男社長によると
佐吉は小学校しか出ていなかったんですが、いろいろな方からお国のために仕事をしなさいといわれていました。
そこで何をできるかお国のためになるか分からなかった佐吉少年が毎晩毎晩夜なべしてをして内職をしていた母親を助けようと、機織り機を楽な物にできないかとつながったのが織機でした。
その後、1937年に喜一郎が自動織機から自動車へと企業全体をモデルチェンジした
そうです。
ホンダの池 史彦会長によると
本田宗一郎は東海精機重工業の会社名で、戦前ピストンリングを作っていて、トヨタの下請けでした。
豊田喜一郎氏と本田宗一郎は同郷でした。戦後、本田宗一郎は毎日お酒を飲んで過ごしていたのですが、日本の混乱期に奥さんが自転車で買い出しに行く際に重い荷物を持って帰るのを見て、奥さんを楽にさせたいと、軍から払い受けたエンジンを自転車に付けて走り回っていました。
浜松の街を走り回る姿を見て、周囲から欲しいというニーズがわき起こり、最初は軍からの払い下げのエンジンを付けていたのですが、需要が大きいのであればとエンジンを作ってオートバイの原型を作り、その後オートバイを製作しました
さらに
日本は農業国であったため、オートバイの次に耕運機を作り、ホンダ宗一郎の夢であった四輪車を作ろうとしていました。
当時、自動車メーカーの数を(軽自動車を含めて)7〜8社にしようとする法律(特定産業振興臨時措置法案でのちに廃案)が作られる前に、クルマを作っちゃえと1962年のモーターショーに軽トラックとS360というスポーツカーを4カ月で作り、翌年から量産車を作ったという歴史がありました
と、創業のエピソードを紹介されていました。
(塚田勝弘)
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