江戸幕府の軍艦「咸臨丸」が米国に向けて出港。石炭を燃料とした帆を持つ蒸気船で往復約2万kmを無事航行【今日は何の日?1月13日】

■日米修好通商条約の批准を目的に渡米した木製蒸気船

咸臨丸の模造船(引用:PhotoAC)
咸臨丸の模造船(引用:PhotoAC)

1860(安政7)年1月13日、江戸幕府の軍艦「咸臨丸」が米国に向けて品川を出港しました。

勝海舟や福沢諭吉、ジョン万次郎らが乗船したことで有名ですが、2月26日に無事サンフランシスコに到着。咸臨丸は、3本のマストとスクリューを装備した木造軍艦で、石炭を燃料とした蒸気船でした。


●渡米の目的は、日米修好通商条約の批准

1853年、浦賀にペリー率いる黒船4隻が来航し、鎖国の状態にあった日本に開港して米国と貿易することを要求。1856年には、タウンゼント・ハリスが米国総領事として着任し、結局、江戸幕府は米国の圧力に屈して1858年に日米修好通商条約を結びます。

黒船のイメージ(引用:PhotoAC)
黒船のイメージ(引用:PhotoAC)

この条約によって、横浜、新潟、神戸、長崎を開港し、外国人が商売することも許されるようになりましたが、日本に関税自主権がないなど不平等な条約でした。

咸臨丸の渡航は、この条約の批准(最終確認)を目的としたもので、勝海舟や福沢諭吉、ジョン万次郎らが乗船し、米国ポーハタン号に随行する形で、1860年1月13日に品川を出港しました。浦賀港に寄港した後に本格的な航海に臨み、様々な苦難に見舞われながらも、2月26日に無事サンフランシスコに到着。その後、任務を終えて3月19日にサンフランシスコを出港し、5月5日に浦賀港に帰国したのです。

●石炭を燃料とするオランダ製の帆を備えた蒸気船

欧米諸国の開国要求に脅威を持った江戸幕府は、海軍の創設を決めてオランダに2隻の軍艦(咸臨丸と朝陽丸)を発注。咸臨丸は、オランダのホップ・スミット造船所で建造され、発注してから3年後の1857年2月に完成し、9月に長崎に入港しました。

咸臨丸は、3本のマストを持つ洋式の木製スクリューを装備した木造軍艦で、全長48.8m、全幅8.74m、重量およそ約600t。約100psの蒸気機関を動力として、最大速度は6ノット(時速10km/h)とされ、燃料は石炭でした。また、軍備として32ポンド砲12門を備えていました。

入出港時や逆風の時はスクリューで進航しますが、それ以外は帆走します。当時は、帆船から蒸気船へ、木船から鉄船へ切り替わる過渡的な時期で、大型船では蒸気機関を装備しながら帆も設置する船(汽帆船)が多かったようです。

●咸臨丸は、日本初のスクリュー式蒸気船

英国の産業革命の一役を担った実用的な蒸気機関は、1760年代にジェームズ・ワットが開発改良を進めました。すぐに、蒸気船や蒸気機関車が登場し、世界初の蒸気自動車は1770年にフランス人のキュニョーが発明しました。

外輪式蒸気船のイメージ(引用:PhotoAC)
外輪式蒸気船のイメージ(引用:PhotoAC)

蒸気船は、ボイラーで発生した高温高圧の蒸気をピストンが組み込まれたシリンダーに送り込みます。シリンダーに装着した弁の開閉によって、蒸気の圧力を切り替えてピストンに往復運動させ、この往復運動をピストンロッドで回転運動に変換して、外輪やスクリューを回して推進力を得ます。

外輪式は、水車のような形状をして羽によって水をかく方式で、その後にスクリュー式が登場。スクリュー式の誕生により、船舶の航行速度は格段に向上し、しかも静かなので外輪タイプは徐々に淘汰されました。ペリー艦隊は外輪船で、咸臨丸は日本初のスクリュー船でした。


近代日本の道を切り開くという重要な役目を果たした咸臨丸。一方で、日本の海運業界の発展や蒸気機関の進歩に大きな影響を及ぼしたことは、言うまでもありません。

毎日が何かの記念日。今日がなにかの記念日になるかもしれません。

Mr.ソラン

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Mr. ソラン

某自動車メーカーで30年以上、自動車の研究開発に携わってきた経験を持ち、古い技術から最新の技術までをやさしく解説することをモットーに執筆中。もともとはエンジン屋で、失敗や挫折を繰り返しながら、さまざまなエンジンの開発にチャレンジしてきました。
EVや燃料電池の開発が加速する一方で、内燃機関の熱効率はどこまで上げられるのか、まだまだ頑張れるはず、と考えて日々精進しています。夢は、好きな車で、大好きなワンコと一緒に、日本中の世界遺産を見て回ることです。
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