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■インドのコンクールデレガンス前日譚
クラシックカーの魅力を伝道する越湖信一さんによる、インドからの採れたてリポート第2弾(第1回はこちら)!今回のインド行きの目的は、クラシックカーの審査員を務めるため。でもその道程は、ずいぶんと波乱万丈だったようで…。
●変わりつつあるインドのクルマ事情
インドのクラシックカー・コンクールデレガンスにやってきた筆者です。3年ぶりに訪れたインドの街も少なからぬ変化がありました。
インドのファミリーカーは、なんといってもバイクでしょう。HEROという勇ましい名前のブランドは10年ほど前まではホンダとの合弁会社でしたが、現在は民族系としてシェアNo.1。
クルマがひしめき合うメインストリートを眺めていると、あれっ?何かバイクが大きな塊のようになっています。そう、家族4名が1台の小さなバイクにしがみついているのです。ノーヘルで。スモッグと砂塵を避けるためにみなスカーフで口を覆っていますが…。
絶えず接触事故が起こるインドの路上ですから、大丈夫なのか何時も心配になります。
3年ぶりにインドへ来てみると、明らかに路上のクルマの分布に変化を感じます。それは小型SUVが一気に増えたことです。こちらではカローラやスイフトなどにトランクが付いた3ボックスの小型セダンがメジャーでしたが、やはりSUV系の使い勝手の良さが評価されたのでしょう。
こちらは雨期となるとかなりの確率で道路は川のようになってしまうし、いたるとことに巨大な穴が空いてますから十分な最低地上高は必須。それに“かまぼこ”のような凸のスピードブロッカーがあちこちにあり、その高さがまたえげつない。
妙に最低地上高をあげただけの平べったいセダンより、SUVタイプの方が見栄えもいいですしね。そんなことも考えると世界的なトレンドであるSUVがインドでもメジャーになるのは当然でしょうか。
●彼らがクラクションを鳴らし合う理由
もうひとつはオートリキシャと言う3輪タクシーの数が減ったことです。2サイクルで懐かしい排気ガスをまき散らす、このある意味で合理的な乗り物も、環境問題への対応で大きく数を減らしているのです。通常のタクシーより安価ですが、強気の料金交渉が必要となることもあります。
日本人なら、そこかしこでクラクションを鳴らし合う運転スタイルにも違和感を持つはずです。日本でやったら大げんかになるでしょうね。しかし、こちらではクラクションを鳴らし、他車に自分の存在を知らせることが重要な運転マナーでもあるのです。
つまり、「そこどけ」ではなく「私はここにいますよ」を代弁しているということなのです。だからよくトラックの後ろを見るとサイケデリックな筆調で「Blow horn Please(ホーンをどんどん鳴らしてくださいな!)」と書かれているのです。
トラックの荷台やボディに隙間無く描かれたワケの解らない絵やヒンズー語など見ているとクラクラしてきます。日本が空間を愛でる“わび・さび”文化だとすると、インドは空間があれば全て埋めてしまうという正反対の文化である、というのが私の解釈なのですが…。おっと、インドの街や文化について語り出すと止まらなくなってしまいました。
さらに言わせていただければ、滞在したグジャラート州が禁酒エリアということを知った私の落胆は相当なものでした。何の心の準備もない中、あのこってりしたカレー味三昧をミネラルウォーターで凌がなければならないのですから。
●衣装がない!
さらに不幸は続きます。私の飛行機への預け入れ荷物が行方不明となり、インド滞在中に手元に届くことはありませんでした。
コンクールデレガンス審査員のユニフォームであるブレザーもチノパンも、ガラ・ディナー用タキシードも、アイボリーというドレスコードで用意したフォーマルなスーツも靴も何もないのです。何とかしなければなりません。
情報網を駆使すると、衣類を扱うショッピングモールがホテルからほどない距離の所にあるというではないですか。審査員の送迎担当、ヴィナイくんを拉致して早速そこへ連れていってもらいました。
もう、現地の民族衣装で良いかなと思っていました。この数千人が参加するコンクールデレガンスの中で日本人は間違いなく私一人でしょうし、“あの日本人はインド文化に敬意を示すため、インドの衣装でクルマの審査をしているのだな”、と良い方に誤解してくれるかもしれないではないですか。
しかし目的地はイオンモールを少し高級にしたような、モダンで結構な規模のものでした。結局、イタリアンデザインを特徴とする人気インドブランド(と、店員が言う)で一式揃えることができたのです。なかなか着心地も良かったですよ。
●ドバイ在住紅一点の本当の「顔」は…
さて、本題のコンクールデレガンスへと戻りましょう。
4日間にわたるイベントですが、総計200台のクラシックカーを35名の審査員がジャッジします。カテゴリーは、ベテランとエドワーディアン(1886-1919)、戦前のアメリカ車(1920-1939)、戦前のヨーロッパ車(1920-1939)、戦後のアメリカ車、プレイボーイカー、スクリーンカー、インド・ヘリテージ、マイクロカー、ロールス・ロイス クラス、ベントレー クラス、そしてイベントスポンサーでもあるMGやマヒンドラ クラスと多岐に渡ります。これらに加えてモーターバイクのカテゴリーもありますから相当な規模です。
審査員にはペブルビーチやヴィラデステなど世界的なコンクールデレガンスの常連達が集まり、国際基準で行います。英国サロン・プリヴェを主催するInternational Chief Judges Advisory Group(ICJAG)の作法に基づき、グループで審査を行い、各カテゴリーのベスト3を選出するのです。
数十項目に関して基準を満たして居ない点、たとえばオリジナリティに欠けるものや、コンディションが悪い箇所などをマイナスとし、逆にオーナーのクルマに賭ける情熱や、クルマのヒストリーなど希少性をプラスし、数値化します。私の担当したのは第二次世界大戦後アメリカ車、クローズドボディとオープン、計40台ほどでした。
旧知のデンマーク在住カーヒストリアンのベン・エリックソン、そして北米のスチュアート・ フィールドとのグループに私は加わりました。このコンクールデレガンスの審査員はなかなかバラエティに富んでおり、以前はペブルビーチコンコースのチェアーマン、サンドラ・バトンや今やカーメーカーのトップでもあるゴードン・マーレーというような皆さんともご一緒しました。
さて、今回、私達のグループにはドバイ在住の物静かな紅一点、ブシュラー・ナスラ嬢の参加がありました。彼女曰く、本格的なコンクールデレガンスを当地でも開催できるよう勉強したいとのことで、ひたすら謙虚。でも彼女の語るバイオグラフィーはなにやらとてもダイナミックでした。
「まだペダルに足が届かないころからクルマの運転をした」とか「50度近い気温の中でスピードトライアルをするのは気合いが必要で・・・」というような内容になってくると、彼女は何者なんだと思わざるを得ないじゃないですか?彼女がネットフリックス“アラブ最速の称号”で有名な女性ドラッグ・レーサーであると知ってびっくり。思わず彼女の武勇伝に聞き入ってしまいました。
さて、インドのコンクールデレガンスがここ5年ほどでどのように変化してきたのか、そしてベストオブショーはどのクルマが獲得したか、というお話は次回へと続きます。
(文&写真:越湖信一)
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https://clicccar.com/2023/02/03/1257670/