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■父である豊田佐吉が設立した豊田自動織機から自動車事業に進出
今から128年前、トヨタの実質的な創業者で、現トヨタおよびトヨタグループの礎を築いた豊田喜一郎が生まれました。「日本人の手で日本人のための純国産車を作る」という理念のもと、クラウンを始め、エンジンからボディまで完全オリジナルの乗用車を次々と完成させました。
●機械工学を学び、自動織機の開発を経て自動車の開発に挑戦
豊田喜一郎は1894(明治27)年6月11日、現在の静岡県湖西市で織機製造を営む豊田佐吉の長男として生まれました。3歳で名古屋に転居して、第二高等学校を経て東京大学工学部に入学、1920年に佐吉が創業した豊田自動織機に入社します。
1929年に欧米に出張した際に、急成長していた米国の自動車産業を目のあたりにして、自動車製造に取り組むことを決意。こだわったのは、すべてを自社設計する完全オリジナルの本格的な国産乗用車を作ることでした。
しかし、当時のクルマはGMやフォードなどの輸入車だったため、周囲からは大反対を受けます。そのような中、父佐吉から「お前は自動車をやれ」と後押しされ、1933年に自動織機内に自動車部を設立しました。
●トヨタ自動車の社長に就任して日本初の本格乗用車クラウンを発売
1935年には自社技術だけで製造した「G1型トラック」と「AA型乗用車」を開発。翌年販売を始めましたが、トラブル続きで修理に追われて大変だったそうです。
1941年にトヨタ自動車工業の2代目社長(初代は、佐吉の娘婿の豊田利一郎)に就任。そして1955年、待望の日本初の本格乗用車「トヨペットクラウン」を世に送り出します。乗用車専用のシャシーに、フロントにはダブルウィッシュボーンの独立懸架、パワートレインは1.5L直4OHVエンジンと3速MTの組み合わせ。デザインはアメ車風ですが、最高速度100km/hと、日本の道路事情にマッチした優れた性能を発揮しました。その後、「コロナ」、「パブリカ」、「カローラ」と次々にヒット商品を生み出し、自動車のトップメーカーへと躍進したのでした。
●現物主義やカンバン方式など開発・生産の効率化を推進
豊田喜一郎は、技術者らしく開発や生産において、現在も受け継がれている様々な合理化策を推進しました。
・トヨタグループの構築
部品のスムーズな調達のため、日本電装やアイシンなど多くの関連会社を設立
・現地現物主義
モノづくりの基本は、実物を見て触って理解を深め、素早い決断と実行することを社員に徹底
・カンバン方式の基礎作り
「必要なものを必要なときに、必要なだけ造る」ことを目指して、在庫を減らすことを徹底
豊田喜一郎は優れた技術者(発明家)であり、経営者としての才覚にも恵まれた、トヨタだけでなく日本の自動車産業の礎を築いた人物です。ちなみに現トヨタ社長の豊田章男社長は喜一郎の孫にあたります。
毎日が何かの記念日。今日がなにかの記念日になるかも知れません。
(Mr.ソラン)