自動車評論家 徳大寺有恒さんが逝去【今日は何の日?11月7日】

■「間違いだらけの車選び」で自動車業界に旋風を巻き起こした

NAVI CARSの表紙を飾った徳大寺有恒氏
NAVI CARSの表紙を飾った徳大寺有恒氏

2014(平成26)年11月7日、自動車評論家の徳大寺有恒(とくだいじ・ありつね)氏が亡くなりました(享年74歳)。

1976年に出版したベストセラー「間違いだらけの車選び」で、歯に衣を着せぬ車の評論が人気を呼び、空前の大ヒット。その後も数々の記事や著書を出版するなどの活動によって、日本の自動車ジャーナリズムに大きな影響を与えました。


●徳大寺有恒(本名:杉江博愛)氏の略歴

・自動車に興味を持ち始めた幼少期

杉江博愛(すぎえ ひろよし)氏は、1939(昭和14)年に東京原宿竹下町で誕生。父親はGM系のディーラーに務めており、当時自家用車は庶民の手の届かない贅沢品でしたが、仕事柄乗用車を所有。終戦後、父親は疎開した茨城県水戸市でタクシー会社を始めます。子どもの頃から身近に自動車があった影響もあり、この頃からすでに自動車に興味を持ち始めました。

・自動車に夢中になった少年時代

初めて車に乗ったのは中学生の時。父親に頼んで自社のタクシー「B型フォード」を運転。1955年、高校生になった杉江少年は自動車専門誌「モーターマガジン」に出会って自動車の虜になり、カメラを手に水戸から遥々輸入販売店の多い東京の赤坂に頻繁に出かけたとのこと。

その後、水戸一高から成城大学に進学、アルバイトで稼いだお金で「ヒルマン・ミンクス」を購入し、ドライブや車いじりに没頭した大学生活を送りました。

・トヨタの専属ドライバーになるもクビを宣告される

大学卒業後は、いったん洋書の輸入代理店「本流書店」に就職するも、レーサーを夢見る日々を送っていました。大学の同級生ですでにトヨタの専属ドライバーだった式場壮吉(しきば そうきち)氏の紹介で、トヨタの採用テストを受けて専属ドライバーに合格。第1回日本グランプリにコロナで出走したりもしましたが、目立った成績を残すことなくリストラで突然クビに。本人は、腕よりも闘争心に欠けていたと後に回想しています。

・カー用品会社の成功と挫折

トヨタを辞めて25歳になっていた杉江氏は、式場氏とともにカー用品会社「レーシングメイト」を設立して、専務に就任。会社は、モータリゼーションによる急速な拡大とともに急成長。ところが、主要取引先だった大手輸入車ディーラー「日本自動車」の倒産の煽りを受けて、あえなく連鎖倒産をしてしまいます。この頃から、タクシードライバーをしながら、細々と自動車記事の執筆を開始。しかし、ストレスと過労が原因のためか糖尿病で緊急入院、この時ベッドで書き上げた原稿が後の大ヒット作「間違いだらけの車選び」のベースとなりました。

・徳大寺有恒の誕生

退院後は、メンズファッション誌「チェックメイト」のフリーランスの編集者として自動車関連の記事を書き、本格的な自動車評論家として活動を開始。そして、フォルクスワーゲン「ゴルフ」を購入し、ゴルフの出来栄えに感動し、闘病時に書き溜めた記事を全面的に書き直すことに。

日本車の進化を称えるような内容が全く逆の日本車を批判する内容の記事に変わり、ここに「間違いだらけの車選び」が完成したのです。

著者名は本名でなく、徳大寺有恒として出版。内容が内容だけに、自動車メーカーを敵に回しては仕事がなくなるのではという、編集社の配慮からペンネームを使ったのです。出版された本は、辛辣な記事が車好きの読者を掴んで、瞬く間に大ヒット、一気に77万部まで上り詰めました。

一方で、徳大寺有恒はいったい誰なのかと世の中で話題になったので、続編を出版したタイミングで、徳大寺有恒は杉江博愛であることを発表しました。

・その後

「間違いだらけの車選び」はその後毎年重版して部数を伸ばし、また自動車評論家として「ベストカー」「NAVI」などの自動車専門誌を中心に執筆。その後も、自動車の技術や性能のみならず、社会的、文化的な側面からも自動車を語るスタイルは、多くの読者から支持を集めました。

●自動車メーカーにも影響を与えた実直なコメント

筆者が「間違いだらけの車選び」を読んだのは学生時代、車に乗る機会も少なく、ましてやいろいろなメーカーの車に乗ることなどありえない状況、この本を読んで“なるほど、そうなのか”と、正しいか正しくないかは別にして、分かったような気持ちにさせてくれました。

自動車メーカーに入社後も、徳大寺氏の記事や著書に触れ、参考になったことも多々ありました。メーカーが直接彼の意見や要望に応えることは、表向きにはありませんでした。

しかし、多くの商品企画や開発に携わっていたメーカーの社員は、筆者と同様に仕事の参考にしていたはず。これが問題だと書かれれば、自分が担当していればなおさらのこと、何が悪いのか確認して、要すれば改良したはず。

その意味でも、彼の放った意見や要望は、車づくりにも影響していたと言っても過言ではないように思います。


徳大寺さんが活躍した1970年代後半から2000年代初頭までは、日本の自動車産業が急成長して、自動車はみんなの憧れでした。そんな良き時代の寵児として現れたのが、辛口評論家“ちょいワルオヤジ”の大徳寺有恒だったのでしょう。

毎日が何かの記念日。今日がなにかの記念日になるかもしれません。

Mr.ソラン

この記事の著者

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Mr. ソラン

某自動車メーカーで30年以上、自動車の研究開発に携わってきた経験を持ち、古い技術から最新の技術までをやさしく解説することをモットーに執筆中。もともとはエンジン屋で、失敗や挫折を繰り返しながら、さまざまなエンジンの開発にチャレンジしてきました。
EVや燃料電池の開発が加速する一方で、内燃機関の熱効率はどこまで上げられるのか、まだまだ頑張れるはず、と考えて日々精進しています。夢は、好きな車で、大好きなワンコと一緒に、日本中の世界遺産を見て回ることです。
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