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■日々、愛車と過ごすプレスライダーのバイクとの向き合いかた
バイクライフといえば、趣味のツーリングなどを連想しますが、世の中には仕事としてバイクに乗っている人も大勢います。そんな人たちは、バイクとどんな付き合い方をしているのか。実際にバイクと働く人たちに、話を聞いてみました!
●運転技術に長けていたプレスライダーに興味を持ち業界へ
連日連夜、ニュースで流れるさまざまな事件や事故。その生々しい状況を伝えるため、現場から記録メディアや書類を受け取り、放送局や新聞社などへと届けるプレスライダーという仕事をご存じでしょうか。
画像や動画データをインターネットで送信する通信技術が発達したことで、一時期よりも数が減ったそうですが、いまだに報道業界には、プレスライダーとして活躍されている方が少なくありません。
今回、お話を伺った池之上英士さんもそんな職業のおひとり。21歳でプレスライダーのデビューを果たすと、50歳を過ぎた現在まで第一線で活躍されています。
自動車免許を取得した後、中型二輪免許、その後、大型二輪免許を限定解除で取得した池之上さんは、最初の大型バイクとしてヤマハSR500を購入。都内をバイクで走らせているうち、プレスライダーたちの運転の上手さに興味を持ち、自らもその業界に足を踏み入れたそうです。
以来、30年以上もの長い間プレスライダーを続けてきた池之上さん。とくに印象に残っていることをうかがうと、1995年1月に発生した阪神・淡路大震災を挙げてくれました。
「震災が起きて間もなく、会社から『現地支援に行ってくれ』と指示が出ました。真冬だったので雪による通行止めを考え、東京から京都までは新幹線で移動、京都でレンタルバイクを借りて、いくつもの通行止めにUターンを繰り返しながら現地のテレビ局へ駆けつけました。
震災の翌日だったのですが、とにかく余震がすごかった。神戸市の長田区はまだ火事も消えていない状態で、そんな中をカメラマンが撮ったVTRテープを放送局に届けるべく走りました」
この時は、倒壊した建物の瓦礫が巻き起こす埃が舞うなか、10日間ほど現地に滞在しましたが、その様子は今でも目に焼き付いているそうです。
「同じ1995年ですが、オウム真理教の麻原彰晃代表が上九一色村で逮捕され、警視庁に移送されることになりました。そのときは山梨から東京まで、代表の乗せられたクルマを後を追いかけて走りました。あの日は雨だったんですが、中央高速をまたぐいくつもの橋に、びっしりと人垣ができていたことを覚えています」
「マラソン中継で、オートバイから選手を撮影したりしますが、アナウンサーを最初に乗せて走ったのは私だと思います。
仕事を通じてすごいと思ったのは、俳優の勝進太郎さんですね。1990年、麻薬所持容疑で出頭命令を受けた際、私はそのクルマを追いかける立場だったのですが、助手席に座った勝さんは動じるそぶりもなくまったくの自然体。一瞬、姿を見ただけなのに、肝の座っている人なんだと感じました」
●ひとりで完結できる達成感が仕事の魅力
「プレスライダーとして一番重視しないといけないことは、荷物の引き取り先から目的地まで天候や渋滞に関係なく、同じ所要時間で移動することだと考えています。当然、ルートも複数頭に入れておかないといけません。『早く荷物を届けないと』と無茶しても事故を起こしたり巻き込まれるリスクがありますし、そうなると身体が持ちませんから」
一見、当たり前のように思われることですが、道路状況は天候や日時によって大きく変動するもの。事故を起こすリスクを避けつつ、状況に応じてルートを変更した上で、常に最短かつ確実に移動を完了することは容易なことではありません。
また、プレスライダーの相棒であるバイクについては、常に行動をともにするからこそ車両の機嫌が良いか悪いかも身体で感じることができるといいます。
現在、ヤマハMT-07に乗っている池之上さんですが、職業柄、一般のライダーと比べバイクの使用頻度は圧倒的に多いにもかかわらず、メンテナンスを重視することで、故障することはほぼ考えられないと胸を張ります。
先ほどお伝えしたように、通信技術が発展したことでプレスライダーの数は減少傾向にあると言われますが、取材者から託された荷物を運ぶという従来の仕事だけでなく、火事などの現場へ向かいスマートフォンなどで撮影することも求められたりすることも出てきたといいます。
基本的に、プレスライダーは365日24時間、オーダーが入ると現場へ向かう大変な業務ですが、この仕事についての魅力を聞いてみました。
「30年以上もバイクと向き合うプレスライダーを続けているのは、バイクという乗り物が好きだからなのでしょう。天候などで辛い思いをすることもありますが、ひとりで完結できるこの仕事の達成感は、プレスライダーという職種ならではの大きな魅力だと思います」
●音色に惹かれて三線にハマる
多くの人が趣味として所有しているバイクは、池之上さんにとっては仕事の必需品。では趣味は何かとうかがうと、三線を弾くことだと話してくれました。
三線とは、沖縄音楽に欠かせない弦楽器。太さが違う3本の弦が特徴です。
若い頃からフォークやエレキギターを楽しんできた池之上さんが三線に出会ったのは、40歳を過ぎてから。
お酒を嗜みながらお気に入りの沖縄民謡を気軽に演奏したいと、三線を手に入れたそうです。
ただ、ギターと三線は弦の数が違うだけでなく、楽譜の読み方や調弦の仕方が全く違っていました。
とくに“ちんだみ“と呼ばれ3つの異なる調弦があることで、演奏したかった沖縄民謡が上手く弾けずにいたことから、近所の先生に教えを乞うことを決断します。
言われるがまま教えを受けていくと少しずつ上達していき、同時に三線の面白さも感じていきました。また、毎年開催されるコンクールの存在も練習するモチベーションを高めていったといいます。
「習いはじめて知ったのですが、沖縄民謡は本島エリア、宮古エリア、八重山エリアと大きく3つに分類されます。それらは、歴史背景や言葉、メロディがそれぞれに違います。習いに行った先生は、八重山古典音楽安室流保存会の師範で古典音楽を教える方でした。当初、沖縄本島の民謡を習いに行ったはずが、すっかり八重山民謡の虜となってしまい、教師にまでなってしまいました(苦笑)」
池之上さんは、初めて挑戦したコンクールで新人賞を受賞。その後も最優秀賞などを獲得し、教える立場にまで上り詰めました。現在は教える側として、所属している三線の流派で弟子を抱えるだけでなく、沖縄のアンテナショップが主催する三線教室で講師を務めているまでになったそうです。
●八重山諸島の空気が三線の音色を豊かにする
「三線の魅力は、何といってもその音色。私が習い、また教えているのは、唄三線といって歌いながら弾くものなので技術的に難しいのですが、自分の世界に没頭できるのが魅力ですね。仕事でのストレスも吹き飛びます!」
そう三線の魅力を語ってくれた池之上さんですが、これらふたつには、その楽しみ方に似たような魅力があると言います。
バイクを運転することも三線を演奏することも、基本的には自分ひとりで行う作業。運転とは、与えられた状況と周囲の環境に気を配りながら最大限、自身のライディング技術を駆使していくもの。単にひとりで弾くだけでなく、教えたり聴かせたりする楽器の演奏テクニックの向上と共通項があるのも想像できます。
一見すると動的なバイクと静的な三線ですが、自分の世界に没頭できるという魅力はどちらにも通じるところ。まったく違うジャンルではありますが、お話をお聞きするうちに池之上さんが両方にハマったのも納得できます。
そのような繋がりがあるからでしょうか、室内で演奏するだけでなく、公園や川辺などへバイクを走らせ、開放的な空間で三線を弾くこともよく行っていたとのこと。
コロナ禍により、三線を弾くためにバイクを走らせることはなくなったといいますが、いつかまた気持ちの良い場所で演奏したいという気持ちは持ち続けているそうです。
「世の中が落ち着いたらバイクで近場に行くだけでなく、沖縄の八重山諸島にも行きたいですね。島の綺麗な空気や海を味わいたいです。また砂浜で三線を弾くのですが、こちらで弾くよりもなぜか音が良く鳴るんですよ。島の空気や湿度が三線に良い影響を与えるのかもしれません」
さらに、池之上さんの三線での夢は、お弟子さんがコンクールで良い成績をとるくらいまで上達させること。
このような目標があるからこそ、仕事を含めた人生が充実するのでしょう。
自分はもちろん、教えている人の生活まで豊かにする。大きな事件があってその正確な情報をいち早く知りたい人へ届けることで、人々を安心させるプレスライダーのお仕事。池之上さんの表情を見ながら取材を終えるころには、やはりそこにも隠れていた共通点が見えてきた気がしました。
(文:テヅカ・ツヨシ/写真:ダン・アオキ)