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■峠の有名人がサーキットに舞台を移して88NSRで大暴れ!
何年経っても記憶から消えることなく、連綿と語り継がれていくバイクがある。人はそれを、名車と呼ぶ。これまで数々の名車とともにライダー人生を歩んできた後藤 武が、自身の体験とともに当時の名車の姿を振り返る。
前回に引き続き1988年式NSR250Rに焦点を当てるが、今回の主役は誰もが手懐けるのに苦労した駿馬、88NSRを豪快に乗りこなしたライダーである。
88NSRを語る上で、忘れられない人がいる。彗星こと、堂園道雄選手だ。
大垂水峠では、無茶苦茶に速いMB50乗りとして知られ、シートに「彗星」と書いていたことからバイク仲間から「彗星さん」と呼ばれるようになった。当時からバイク雑誌に度々登場する有名人で、この当時の彗星さん達が、その後の峠小僧のハシリとなった。
彗星さんは、その後サーキットに舞台を移す。ボロボロの(しかもストリート仕様の!)NS250RでF3クラスに参戦。当時無敵の強さを発揮していたTZR250勢に勝負を挑み、TZR以外では予選通過さえ難しいと言われた中、トップグループを走っていた。
いつもボロボロのキャラバンにボロボロのバイク。大垂水出身の若いライダー達の親分的存在で、サーキットでもかなり目立っていた。
ボロボロのNS250Rからピカピカの88NSRへ
そんな彗星さんが、ドリーム野田というチームの88NSRに乗ることになったというニュースは、当時ノービスで走っていた我々の耳に飛び込んできた。
元気なノービスライダーに声がかかって、バイクが貸与されるのは当時としは珍しいことではなかったが、それがあのヤンチャな彗星さんだったから話題は一気に広まった。「最新のバイクに乗ったらどれだけ速いのか」「いや、ボロじゃないと走れないんじゃないか」そんな話で盛り上がる。
「あの時は夢みたいでしたよ。ワークスライダーになった気分。ピカピカのバイクに乗せてもらえて、バイク整備もしてもらえる。自分の金じゃなくてレースやらせてもらえたんですからね」(堂園)
ある時、我々が練習に行った時ドリーム野田のトランポとバイクが目に入った。いよいよ彗星さんの走りを見ることができる。そう考えた我々は、自分たちのバイクの整備を止めて筑波の1ヘアピンで彼の走りを見ることになったのだけれど、これがまあ凄かった。ヘアピン手前のS時でペタンペタンとバイクをベタ寝かし。
振り回していた糸が突然切れたかのようなコーナリング
冷静に考えたら真っ直ぐ走ってきた方が速いのかもしれないが、とにかく勢いとリズムがすごい。そしてS字の2個目を右にすごい勢いで曲がったかと思うとそこから遠心力を領して一気にヘアピンに飛び込んでいく。振り回していた糸が突然切れたような勢い。瞬時にバイクはフルバンクになってすごい速さで旋回していく。
見ていた我々皆んなで「おおー」と歓声をあげてしまった。後で聞いたら、やっぱりやりすぎて1ヘア進入では良く転んだんだとか。そりゃあんだけバイク寝かした状態でブレーキをガツンとかければ無理もない。
その後、昇格してF3にも出場。国際A級に昇格して250クラスでは59秒台を出して決勝進出と活躍を続けた。しかし93年の8耐で転倒、全身の骨を8箇所折るという大怪我。ちょうどその頃、子供が出来たこともあってレースから引退。一人で建設業をスタートさせることになった。
HRCライダーに「峠を走らないから遅い」と豪語
それでも時々彗星さんの噂は耳に入ってきた。HRCのライダーが集まる飲み会にやってきて「峠走らねえから遅いんだ」と持論をぶちまけたとか。本当かどうかは分からないが、確かにあの人ならやってもおかしくないと思った。
一人親方の建築業は中々大変だったが、そのうちに仕事も軌道にのった。今では郊外に家も建て、家族と共に幸せに暮らしている。息子の名前は「彗星君」だ。「仕事もレースも一緒ですよ。1コーナーのツッコミと仕事は人に負けられねえって思って頑張りました」と言って笑う。このマインドこそが88NSRを乗りこなす秘訣だったのだろうと話を聞いていて思ったのだった。
(後藤 武/写真:堂園道雄・2ストロークマガジン)