育ての親は3社!? 意外と知らないクルマメーカーの歴史・日産編

日産自動車の歴史を振り返ってみると、その成立は他のメーカーと若干異なることに気付きます。

例えば、トヨタ自動車は豊田自動織機製作所(現在の豊田自動織機)の自動車部門の独立であり、ホンダは1948年に開設された本田技研工業株式会社で4輪事業に参戦するなど、そのルーツはある一点に辿りつきます。

日産は、1934年に日産自動車株式会社として出発することとなったわけですが、元を辿ると3つの会社に行き着きます。

そのうちの一つが、1911年に橋本増治郎が中心となって設立した快進社自働車工場です。

自動車の国産化を目的とし、出資者の田健次郎、青山禄郎、竹内明太郎の三名の頭文字(D、A、T)を取った「脱兎号(DAT CAR)」という国産自動車第一号を1914年に完成させ、東京大正博覧会に出品。V型2気筒エンジンを搭載し、最高速度は32km/hを誇り、同会にて銅牌を受賞したとのことです。

00

(画像引用:http://www.nissan-global.com/JP/HISTORY/firsthalf.htmlより)

その後、1918年に資本金60万円、建坪600坪、従業員60人を有する株式会社快進社として発足。日本で最初と言われる単塊鋳造4気筒エンジンを搭載する「DAT41型」を発売するも、第一次世界大戦や関東大震災による不況で経営不振に。販売を強化するためにダット自動車商会として再スタートしました。

01

(画像引用:http://www.nissan-global.com/JP/HISTORY/firsthalf.htmlより) 

株式会社快進社と時を同じくして、アメリカ人技師のウィリアム・R・ゴルハムは実用自動車製造株式会社を設立し、ヨーロッパで流行っていた小型三輪自動車の生産をスタート。自動車を一貫して生産できる設備を持つまでに成長するも、不況により、廉価なアメリカ車の人気が高まり、経営不振へと陥ってしまいました。

そんな2社の救いとなったのが、軍用トラックの製造とのこと。二社の合弁会社であるダット自動車製造株式会社は「DAT41型」を改良し、見事経営の安定化に成功。1930年には小型乗用車の試作車第一号を完成させ、着実に成長を遂げていきました。

ところが、1931年に勃発した満州事変で状況は一変。国防の観点からトラックメーカーの合併話が持ち上がり、ダット自動車製造株式会社は石川島造船所株式会社自動車部と合併し自動車工業株式会社が誕生。しかし、同社はダット自動車製造株式会社の目指す小型乗用車の製造には消極的だったと言います。そんな小型乗用車の製造に目を付けたのが、自動車部品の製造を担うとともに、自動車工業への進出を目論んでいた鮎川義介が設立した戸畑鋳物株式会社でした。

その傘下で、495ccの小型乗用車生産1号車を完成。DATの息子という意味で「ダットソン」と名付けられましたが、ソンが損を連想させるとして、太陽(SUN)に変更した「ダットサン」となったのは有名な話です。

Datsun_Model_11_Phaeton

(画像引用:wikipediaより)

その後、戸畑鋳物株式会社自動車部は鮎川義介が率いる戸畑鋳物と日本産業の出資を得て、1933年に横浜にて自動車製造株式会社として旗揚げ。翌年には日本産業が100%出資となり、社名は日産自動車株式会社へと変更されました。

 様々な人々の巡り合わせというユニークな生い立ちをもつ日産自動車ですが、現在はフランスの自動車メーカー「ルノー」のもとでNISSANはもちろん、プレミアムブランドの「INFINITY」、そして新興国向けブランド「DATSUN」を展開しています。今後、それらがどのような絆を築き上げていくのか? 非常に楽しみです。

※文中敬称略

(今 総一郎)