戦後の復活、4輪トラックの時代へ【マツダ100年史・第6回・第2章 その2】

【第6回・2020年7月6日公開】

1945(昭和20)年の8月15日、終戦。
そこからわずか4か月ばかりで東洋工業は3輪トラックの生産を再開しました。すぐに生産台数で首位となり、その後10年以上、3輪トラックのリーダーとして業界を牽引していきましたが、昭和30年代の高度経済成長期に入り、いくらか生活も向上してくると、市場は性能や乗り心地に優れた4輪トラックを求めるようになってきました。
そんな時代の変化に応じ、東洋工業も4輪トラックに方向転換していったのです。

第2章 戦中~戦後の復興

その2.戦後の復活、4輪トラックの時代へ

●戦争が終わり、自動車産業復活へ

1945(昭和20)年の終戦から1か月も経たないうちに、東洋工業は3輪トラックに必要な資材や部品の調達先を探すなど、事業再開の準備を進めていきました。また、その年の9月には、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が、軍需工業の民需生産転換を許可し、さらには輸送力回復のため、月産1500台を目途とするトラックの生産を許可しました。これらの施策が日本の自動車産業にとっての、復活に向けた大きな後押しとなったのです。
東洋工業も即座にGHQに3輪トラック生産の申請を行い、月産1000台の生産認可を受けました。

●3輪トラックの復活

生産認可を受けた東洋工業は3輪トラックの生産を再開しました。終戦からたった4か月というスピードです。
再開したのは、戦前に開発したグリーンパネル「マツダ号GA型」10台。スピーディな展開が奏功したのか、翌1946(昭和21)年には生産台数2430台にまで上り、業界トップになりました。

マツダ「GA型」。
1945(昭和20)年12月に生産が再開されたマツダ「GA型」。

戦時中は軍用に向かないと敬遠されていた3輪トラックですが、戦争が終わるや一転、「小まわりが利いて人や生活用品を輸送するのに便利」と風向きが変わり、急速に需要が高まりました。この市場要求に応えるかたちで、2大メーカー、東洋工業とダイハツ以外の多くのメーカーが3輪車市場に参入してきました。
ライバルの参入でシェア争いは激化。さらに排気量の規格改正などもあって、3輪トラックはより効率的な物流を目指して大型化していきました。
東洋工業も市場の要求に応え、まず1949(昭和24)年に、GA型をベースに排気量を701ccに増量し、最高出力を15.2psに引き上げて積載量も増大させた「GB型」と、1950(昭和25)年には空冷2気筒・1157cc、最高出力32psの業界初・1トン積みの「CT型」を発売しました。
CT型の搭載エンジンは、当時側弁式(SV:サイドバルブ)が主流であった時代に、日本初の頭上弁式(OHV:オーバーヘッドバルブ)を採用して注目されました。

●3輪トラック最盛と4輪トラックへの着手

1950年代に入っても3輪トラックの売れ行きは好調、昭和20年代はトラックの主役であり続け、1954(昭和29)年には、東洋工業の3輪トラックの生産は年間3万台にまで伸びました。
またこの頃、大量生産のための「シェルモールド鋳造法」や「連続ガス浸炭熱処理法」などの先進技術をいち早く採用し、技術の高さをアピールしました。
一方でトヨタや日産は、4輪トラックを販売して徐々に売り上げを伸ばしていました。性能や走行安定性、静粛性、乗り心地の面で、3輪と比べるとやはり4輪の方が優れているからです。
当然東洋工業もそのあたりのことは承知しており、3輪トラックで利益を確保しながら4輪トラックの開発に着手、1950(昭和25)年には東洋工業初の4輪トラック「CA型」を発売にこぎつけました。いわゆるジープ型をまとった2人乗り・1トン積みのボディに、1157ccの排気量で最高出力32psを発生する空冷2気筒エンジンを載せていました。

マツダCA型(1950(昭和25)年6月)。
小型4輪トラック・マツダCA型(1950(昭和25)年6月)。

なお、1951(昭和26)年12月に松田重次郎社長は取締役会長へ、3代目社長には長男の恒次が就任しました。しかし、その翌年の1952(昭和27)年、東洋工業の基盤を築いた重次郎は、惜しまれながらこの世を去りました。

松田重次郎。
1952(昭和27)年に亡くなった松田重次郎。社長在任期間は1921(大正10)~1951(昭和26)年だった。

●4輪トラック市場への本格参入

昭和30年代に入り、日本は高度成長期を迎えました。その一端を支えたのは自動車産業であり、トラック業界は3輪時代から4輪時代へと完全にシフトしていきました。
東洋工業は1950(昭和25)年にCA型を発売しましたが、その後4輪トラックの生産をいったん中断します。本格的な4輪トラックの復帰は1958(昭和33)年の小型4輪トラック「DMA型」からです。
DMA型は「ロンパー」というペットネームが付けられ、新開発の1105cc、最高出力32.5ps空冷2気筒エンジンを搭載した、1トン積みの3人乗りセミキャブオーバータイプでした。発売後も、市場の声をフィードバックしながら、性能や乗り心地、利便性などの改良を重ねました。
長きに渡って戦後の市場を牽引してきた3輪トラックは、この頃にはもう4輪トラックに主役の座を移してしまっていたのです。

マツダ「DMA型」(1958(昭和33)年4月)。
マツダ「DMA型」。ペットネームは「ロンパー」(1958(昭和33)年4月)。

(Mr.ソラン)

第7回につづく。


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第2章・戦中~戦後の復興
その1.戦時体制下の東洋工業(第5回・2020年7月5日公開)

この記事の著者

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Mr. ソラン

某自動車メーカーで30年以上、自動車の研究開発に携わってきた経験を持ち、古い技術から最新の技術までをやさしく解説することをモットーに執筆中。もともとはエンジン屋で、失敗や挫折を繰り返しながら、さまざまなエンジンの開発にチャレンジしてきました。
EVや燃料電池の開発が加速する一方で、内燃機関の熱効率はどこまで上げられるのか、まだまだ頑張れるはず、と考えて日々精進しています。夢は、好きな車で、大好きなワンコと一緒に、日本中の世界遺産を見て回ることです。
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