FJデビューの「ターザン山田」は、セナに憧れる期待の天才レーサーだった!・その2【OPTION 1985年8月号より】

OPT300ZXエースドライバー・ターザン山田こと「山田英二」さんのドキュメントその2です。ひょんなことから鈴鹿のFJレースを目にし、そこから始まったレーサー人生。家業を手伝い、お金をため、そしてFJレースへ挑戦! では、ドーゾ!

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山田英二って知ってっか
FJの練習走行で大クラッシュ!!
その時、山田は「マシンの修理代が~~~(泣)」

【その時のドキュメント】

場所・鈴鹿サーキット。当日はあいにくの大雨。最終コーナーから立ち上がった山田は、ストレートにさしかかった時、中央にある水溜りに足を取られスピン。どうすることもできない。しかし、頭にひらめいたのは、命よりクルマの修理だったらしい。マシンはコントロールを失い、コンクリート壁に激突。山田は大丈夫だったが、マシンは重傷。元通りになるまで時間と金がかかり、3ヵ月間乗れなかった。

デビューは57年の鈴鹿シルバーカップ第4戦、予選は26台中14番手。決勝は2回スピンをし成績は良くなかった。スポンサーもなくエンジン、シャシー、タイヤなど、トップを走る人たちみたいに条件が揃えられない中で勝てるわけがなかった。さすがにこんな状態ではダメだと思い、オスカーFJ1600を売り、ウエストを新車で購入する。いいクルマに乗っていれば、エンジンは悪くてもそこそこの走りができると思ったからだ。

その予感は的中。シルバーカップ第7戦ではポールtoフィニッシュで初優勝した。その日は雨でエンジン性能差がなくなり、他車とのハンディが縮まったからだ。

その後、58年に英ちゃんはF3に移る。F3ともなると個人で新車を購入できるほど安くなく、中古のハヤシF3を買った。またFJみたくメンテナンスまで手が届かず、OHなしで走らせる形だった。もちろん、こんな状態でいい成績が残せるはずがない。その年はシリーズも6位に終わった。でも旧タイプのマシンでこの成績は上出来ではないだろうか。

【あるキッカケ】

他のマシンとまったく違いました。一時、自分のウデが悪いのかと思い舘善泰選手に乗ってもらったら、ラップタイムがボクより2秒も遅いし、自分が持っているコースレコードより6~7秒も遅いんです。当時F3では舘選手が一番速かったですからね。そしたら、こんなマシンじゃお金ばかりかかって絶対前には行けないよ、と言われました。舘さんばかりでなく、いろんな人にも言われました。これじゃ無理だから、もっとお金を貯めていい状態でやれと。それでいつものパターンで、一生懸命仕事して、来年にかけようと考えました。

59年にはマーチ793を購入。そして東名チューンのトヨタ2TGエンジンで戦う。第1戦は予選ポール、決勝2位と好調。F3シリーズに全戦参加し、鈴鹿ではすべてポールを獲得し、優勝2回、シリーズは兵頭秀二に1ポイント差で2位に終わったものの、満足のいくレースがここにきて初めて出来た。

今年(60年)は東名自動車のスポンサードとNISMOの援助により、FJエンジンを搭載したマーチ793で参戦。が、59年と比べてエンジン差によるハンディで苦戦中だ。FJエンジンは2TGより50kgも重く、ボディのバランスがどうしてもリヤ・ヘビーになってしまう。それと熟成差がある。2TGは長年レースで使用されノウハウが叩き込まれているが、FJは今一歩という感じなのだ。FJ用にシャシーをセットしたいが、それには金がいる。それが今の現状だ。

この記事の著者

永光やすの 近影

永光やすの

「ジェミニZZ/Rに乗る女」としてOPTION誌取材を受けたのをきっかけに、1987年より10年ほど編集部に在籍、Dai稲田の世話役となる。1992年式BNR32 GT-Rを購入後、「OPT女帝やすのGT-R日記」と題しステップアップ~ゴマメも含めレポート。
Rのローン終了後、フリーライターに転向。AMKREAD DRAGオフィシャルレポートや、頭文字D・湾岸MidNight・ナニワトモアレ等、講談社系車漫画のガイドブックを執筆。clicccarでは1981年から続くOPTION誌バックナンバーを紹介する「PlayBack the OPTION」、清水和夫・大井貴之・井出有治さんのアシスト等を担当。
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