OPT誌デビュー当時の「ターザン山田」ドキュメント。FJレースを見てレーサーを目指した幼気な少年だった!? その1【OPTION 1985年8月号より】

前回までプレイバックしていました「OPT300ZX耐久レース挑戦記」。1st.ドライバーとして活躍したレーサー「山田英二」さんが、OPT&V-OPTファンの皆さまにはすっかりおなじみの「ターザン山田(ラーマン山田?)」さんっていうのはご存知の通り。

今回は、このレース挑戦でOPT誌初登場となったターザン山田さんの紹介記事をプレイバックしてみましょう。今ではすっかりヒール役として大活躍ですが(!?)、OPTデビュー当時は……(笑)!

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OPT・Zに乗る山田英二って知ってっか
山田英二 OPT・Z、No.1ドライバー
昭和37年4月25日生まれ(23歳)

最初から疑問があった。OPT300ZX耐久レースで、なぜエースドライバーに山田英二さんを選んだのか。レーサーはF2やGCで活躍するドライバーやプロダクションのトップクラスなど、たくさんいる。まだ若くて将来可能性のあるドライバーはこの世にゴマンといる。なぜだ……。

【Daiのコメント】

「このV6Zの場合、エンジンパワーとサスペンションのバランスが悪いはずだ。ニューZのレース用サスが出ていないこともあるが、300ps以上絞り出すVG30エンジンでは完全に振り回されるだろう。それをコントロールするってことは容易じゃない。その点、山田はF3とはいえ、あれだけ振り回して走っている。速さも必要だが、振り回すのに慣れているヤツ、それを考えてオレは山田英二を選んだのさ」

そう言われてあることを思い出した。日産がFISCOでテスト走行しているとき、ギンギンにコーナーを攻めているドライバーがいた。当時、そのドライバーが山田英二だったことは知らなかったが、一緒にいたDaiの頭の中にはきちんとインプットされて目をつけていたという。

また、地域性もある。都会に住んでいるのと田舎では。同じ技量のドライバーだったら、連絡がつきやすい都会のドライバーにお声がかかるというものだ。幸い、Daiの出身地は九州の片田舎。心の中には通じるものがあったのだろう…とは勝手な推測だが。

英ちゃんは耐久レースの話がきた時、どう思ったのか本音を聞いてみた。

「いやだなぁと思いました(笑)。F2とかF1を目指しているのに、何か横にそれる感じがありましたね。でも、なんでも経験ですから、それに自信はありました。1000kmの時も、他の人からはフラフラの走りに見えたらしいけど、あれはサスとタイヤのアンバランス。他のドライバーだったら全開のコーナリングで怖いからアクセルを戻すけど、踏んでコントロールしたわけです。サスがバッチリならカウンターも決まるが、あの場合はその点からも走り方がフラフラに見えたんでしょう。グリップ走行してても、それじゃ上のレベルで通用しませんから。

それと結果的には50秒台がベストだったわけですけど、後から追い上げてくるグループCカーなどの速いクルマに、譲り方が極端すぎました。かなり手前から相手に合図して先に行かせましたから。もし邪魔してブツケでもしたら大変でしたから、一番神経を使いました。もっと速く走れる自信もあったし出来ましたけれど……」。

この記事の著者

永光やすの 近影

永光やすの

「ジェミニZZ/Rに乗る女」としてOPTION誌取材を受けたのをきっかけに、1987年より10年ほど編集部に在籍、Dai稲田の世話役となる。1992年式BNR32 GT-Rを購入後、「OPT女帝やすのGT-R日記」と題しステップアップ~ゴマメも含めレポート。
Rのローン終了後、フリーライターに転向。AMKREAD DRAGオフィシャルレポートや、頭文字D・湾岸MidNight・ナニワトモアレ等、講談社系車漫画のガイドブックを執筆。clicccarでは1981年から続くOPTION誌バックナンバーを紹介する「PlayBack the OPTION」、清水和夫・大井貴之・井出有治さんのアシスト等を担当。
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